――確かに、「いいこと」というのは、誰かに尋ねられないと気づけないことかもしれません。

宇野 障壁や足かせを取り除けず、幸せな瞬間に気付くこともないままに安楽死を選び、スイスに行って遂行することは、何かひとつのミッションのようです。死をもって幸せが達成されるということに、僕は違和感を覚えますね。死ぬまでは生きているのだから歩みを続けて、自然に至るのが死だとわれわれは考えていますから。

古山 よりよく充実して生きる中で折々に達成があるのは意味がありますし、仏教ではそのために努力しなさいと教えます。しかし、達成の対象が死となると、その先はありませんからね。

(撮影:URARA)

自分も他者も、未来の誰かも傷つけていないか

――では、意味のある死はないのでしょうか? 極端な例えですが、太平洋戦争での特攻隊員は、その死によって家族や仲間の幸せを願い、よりよき未来への希望を託しました。彼らの死も意味のあるものではないのでしょうか?

古山 仏教では、「死」を賛美することはできません。周りの人のためという目的があったとしても、死に価値があるとは考えません。自分だけのために、あるいは自分をほったらかして他人のために、というような偏ったことは、よくないのです。

――利他的な行動や自己犠牲も、よくないことなのですか?

古山 自己犠牲はよしとしませんね。偏っているということは、迷いの世界にいることです。安楽死することが本当に自分も他人も傷つけていないか、未来の人たちも含めて利益をもたらしているだろうかと虚心坦懐に掘り下げていくと、矛盾やほころびが出てくるのではないでしょうか。

「死」というものは、元に戻せないのです。世の中のたいていのことは代替があったり償いができたりしますが、死んだ人はその後のことを確認できないし、責任も持てないですよね。それが残された人や未来に禍根を残す可能性があるので、深刻な問題になってしまうでしょう。

宇野 やはり自分だけの命ではないということなんです。自分も周りの人も、世界も含めての命であると。私の命は、家族の命でもある。だから、家族の気持ちをおろそかにしてはいけないし、家族も当人の気持ちをおろそかにしてはいけないと思います。