宇野 最近は「自己決定にこそ意味があり、そこに価値がある」という風潮が強いように思います。たとえば、臓器提供の意思表示カードは、提供してもよい臓器に丸を付けていきますよね。角膜はいいけど腎臓は嫌だなとか、自分で選びます。その選ぶという行為が意思決定であり、本人の意思を尊重していますよと。しかし私はそこに、はかなくて弱い個人の意思に押し付けられているような気持ち悪さを感じてしまいます。

――個人の意思というのは、はかなくて弱く、確かなものではないということですか?

宇野 意思は変わるものですし、変わっていいのです。「やりたいことをやる、やるべきことをやる」というけれども、それが無くなったら生きている価値が無くなるのでしょうか? お釈迦様は最後まで歩いていたけれど、是が非でもたどり着くべき目的地があったわけではないと思います。ただ歩いただけのことなんです。

「一瞬の幸せ」という「仏の時間」に気づいてもらう

――私は「やりたいことがない人生、あるいはやりたいことができない人生は意味がない」と思っていた時期があります。私ひとりがこの世からいなくなっても構わないでしょう、誰にも迷惑かけてないでしょうと考えていました。特に、命にかかわる大病を患い、心身の苦痛を抱えていたころです。その考え方を他人に当てはめると優生思想に結び付きかねないのに、自分だけに向いている時は「問題ない、不自然じゃない」と思っていました。

古山 苦しんでいる当事者にアプローチする際には、偏見や先入観といった押しつけがたくさんあります。それを壊していくことが大切ですね。苦痛、苦悩を本人だけの問題に帰していくと、その人は生きづらくなる。命に任せて、命自体が止まるまで生かしていくという立場を取るのならば、周りの障壁や足かせを壊す、解消する努力を同時にしていかなければならないでしょう。その人らしく振舞えるよう、可能な限り実現するようにできたなら、安楽死以外にもう少し考えようかなと幅が広がるかと思います。一方的に「安楽死は良くありません」と言ってもだめでしょう。

 こと仏教では、人間の価値の重さを、「その人が何であるのか、何をしているのか、何を目的にしているのか」ではなく、「存在している」だけで平等に価値があるとしています。「病人だから、健康だから」とは見ないはずなのです。

宇野 曹洞宗の教義である『修証義』第5章30節に「徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」と出てきます。ダラダラと100歳まで生きても大した価値は無いけれど、たった1日でも仏としての時間が持てたら、100年とそれ以上も生きたような価値があるという文章です。あと何年生きるのだろうと多くの人が考えるだろうし、もう閉じてしまおうと思うこともあるでしょう。自分は社会から必要とされてないと自殺を考える人もいるでしょう。でも、生きていてよかったという瞬間、たとえばだれかにありがとうと言われたとか、この人と話してよかったとか、それがあればいい。その一瞬が一生の価値があるということです。私は、いつもこの教えにすごく励まされます。

宇野全智氏(撮影:URARA)

 以前、余命1カ月のガン患者さんにご家族から頼まれて面談したことがあります。社交的な女性で、PTAの役員をするなど活躍してきた方でした。それが今までできたことができなくなるし、多くの人に愛されていた人なのに孤立を感じておられました。あと1カ月と言われて死ぬのが怖いし、その1カ月を生きていても、いいことがなにも想像できないとおっしゃっていた。

 私は、「1日の中で『これは幸せだな』と思う瞬間がないですか?」と尋ねました。すると娘さんが毎日来てくれて、30分くらい足をマッサージしてくれる、その時間がとても幸せだと言われたんですね。1時間ほどの私との面談も幸せな時間だったと言われて、それが宗教者として僕はすごく嬉しかった。死んじゃダメ、なるべく1日でも長く生きてという応援ではなく、結局人は死んでいかなければならないけれど、この1日いちにちを生きていきましょうという僧侶の立場での応援が通じたと感じました。

 お会いしたのはその1回きりで、本当に1カ月ほどで亡くなりました。でも、彼女の人生の中であの時間に意味があっただろうと思います。僕の力ではなく、宗教という考え方に接したことや、身近な娘さんの行為が「幸せなこと」という関係性に気づいてもらえたことですね。