――もし、その手足を切断された子が殺してくれと言ったとしても、家族が見るに忍びないから死んでくれと願ったとしても、仏教者は認めてはいけないのですね。

古山 仏教においては人為的に死をもたらすのではなく、命のままに任せましょうと考えます。ただし現代では、科学技術の進歩によって変わっていくことになると思いますけれども。

命の苦しみは宗教者もサポートできる

――医療の進歩によって平均寿命がさらに伸び、治る病も増えるでしょう。以前は「80歳を過ぎればそのうちお迎えがくる」と誰も思っていましたが、それもわからなくなってきています。高齢でも身体的に苦痛が無い、という人が増えるのかも知れませんが、そうなったらそうなったで、そこからの人生が長すぎて、さらに不安を抱えることになるかもしれません。

古山 仏教に身を置くものとしては、できるだけそういったことにも関わりたいと思います。お医者さんのように薬を処方することはできませんけれども、メンタルの部分をサポートしながら、苦しみを苦しみと感じないようにする、命の時間が少しでも充実して、その人が生きていけるようにできればと思います。宗教者だけでなく、周りの人もそのように振舞っていけたら、命を放棄せず自然に任せた生涯を送れるのではないでしょうか。医療者など専門家と連携して、向き合っていくことができるように思います。

古山健一氏(撮影:URARA)

――重い病気で治る見込みのない人、余命宣告されたような人の中には、「残り少ない命を自分の好きなように生きたい」と考える人もいるでしょうし、医療者側の中にも「単に生きている状態を延ばすのではなく、QOL(生活の質)を高めよう」と説く人も増えています。それらは先ほどの「命のままに任せる」という考え方と一致しないものなのでしょうか。

古山 当事者の意思表示や家族などとの関係性などによって、どう判断するのがベターなのか違ってくるでしょう。ただ、自分だけの判断で死を選ぶというのは、安直になってしまうと思います。人間の死というのは非常に重いことですから、ある限りの時間を尽くして、それでいいのかとよくよく考え、多くの人と対話する機会をもって、その果てでなければと思います。いっときの感情や話の流れで決めてしまうことではないですよね。

 やれることを尽くして、「それでも安楽死を」とおっしゃるのなら、残念ですが止めるのは難しいですね。でも、ぎりぎりまで考え続けてもらいたい。