工夫の先に開ける世界

 山本周五郎の作品に「箭竹」というのがある。事情あって、武士である父を失い、生活に困窮する母子。母親は、矢を作る内職を始める。しかし作るからには、天下に並ぶもののない矢を。工夫に工夫を重ね、やがて・・・というお話。

 やはり周五郎の作品に、「武家草鞋」というのもある。曲がったことが大嫌いな元武士だった男。薦められて始めたのが、草鞋作り。材料をケチらず、しっかりと丈夫に作った草鞋は評判を呼び、やがて・・・というお話。

 どちらの作品も、精魂こめて、工夫に工夫を重ねる姿を描いている。こうした工夫を重ねる心象は、日本人にとても合っているように思う。

 私の元に、留年を重ねた学生が来た。就職シーズンが来ると気が重くなり、大学に行かなくなってしまうのだという。聞くと、「学生でいる間は、可能性のカタマリでいられる。就職すると、社会の部品にならなければならず、可能性が全部失われてしまう。そういうものだとは分かっていても、そう思うと気が重くなってしまう」のだという。

 私は次のような話をした。

「鉄鉱石は可能性のカタマリだ。カナヅチにだってノコギリにだってなることができる。けれど、鉄鉱石のままではクギも打てず、木を切ることもできない。カナヅチになったら、ノコギリになる可能性を失ってしまうかもしれない。ノコギリになれば、カナヅチにはもうなれないかもしれない。
 けれど、大工さんが愛好してやまないカナヅチやノコギリになったとしたら、いろんな現場に運んでもらえる。それは江戸時代からの古民家もしれないし、美術館かもしれないし、大臣の邸宅かもしれない。
 手になじむカナヅチやノコギリになり、これがないと仕事にならない、というくらいに特化すると、面白いもので、狭くなったがゆえに出会える世界は広がる。何かになってしまうと可能性は狭くなってしまうように思われるかもしれないけれど、何かになりきってしまうと、むしろその先には小宇宙が広がっているのかもしれないよ」

 その学生は、きちんと卒論を書き上げた後、修士課程にまで進んで私の研究を一緒に進め、就職した。