一方、クイーンメリーは潜水艦に攻撃されないようなるべく高速航行していた。時速53キロで航行し、さらに潜水艦から照準を合わされないようにジグザグ航路をとっていた。

 遅いキュラソーはジグザグ航路をとるとクイーンメリーについて行くことができないので、真っ直ぐ航行していた。クイーンメリーのジグザグの進路とキュラソーの直線の進路は、クイーンメリーがキュラソーに突っ込む形で交わることになった。

 8万トン対4000トン、しかも4000トンの方はボロ。この勝負、キュラソーに全く勝ち目がなかった。

 クイーンメリーは船首が損傷したが、何事もなかったかのように高速航行を続けた。対するキュラソーは船体を真っ二つに分断され、沈んでしまった。

 これがドイツの軍艦であれば大手柄だったのだが、残念ながらキュラソーは味方の英国海軍の軍艦だった。

 クイーンメリー号の生涯にわたる出来事で最も悲惨なものであった。

 しかし、戦艦大和はごくわずかの航空機撃墜に加え、2000トン以下の小型艦艇を沈めた実績しかないのに対し、クイーンメリーは味方とはいえ4000トンのサイズの軍艦を沈めている事実に変わりない。

 サイズやスピードだけではなく、軍艦を沈めた実績においても、戦艦大和は英国の豪華客船に負けたのである。

戦艦大和が本当に活躍したのは戦後?

 戦前の日本の工業は急成長中であった。零戦や戦艦大和は戦前の日本人の努力の結晶であった。

 日本の兵器の性能は欧米の兵器に迫りつつあり、部分的にはしのいでいた。しかし、やはり、全体的・総合的に見れば負けていた。

 また、当時の日本の工業は現在の北朝鮮に比べればマシであろうが、明らかに軍事偏重であった。

 当時の欧米では戦艦よりも巨大で高速な客船を運航していたのに対し、戦前日本最大の客船は戦艦大和の半分のサイズもなかった。

 欧米の豪華客船が戦艦大和よりも巨大で、スピードも速く、さらに軍艦を沈めた実績でも大和をしのいでいたというのは、ある意味で当時の日本の限界を表しているだろう。

 とはいえ、当時の日本の成長スピードが極めて速かったということも事実である。あそこまで悲惨な敗戦を迎えたにもかかわらず、日本の造船業は戦後すぐに復活し、成長を再開した。

 日本の造船業が世界最大の建造量を誇るようになったのは、敗戦のわずか11年後の1956年であった。

 クイーンメリーやノルマンディーを建造した英仏の造船業や、日本艦隊を圧倒した米国艦隊を生み出した米国の造船業を抜いたのだ。

 日本の造船業界は、戦前、戦中の大和を含む軍艦の建造で、溶接、ブロック工法、効率的工数管理などを取得していった。

 戦争にはほとんど役に立たなかった戦艦大和も、高度経済成長期に世界一となる日本の造船業の発展には多いに貢献していたのである。