B-29(左)とB-36(右)。戦時中、世界水準を超えた超大型機であったはずのB-29が、B-36の隣にいると小型機に見えてしまう(出所:B-36 Peacemaker Museum)

 毎年、3月になると東京大空襲の体験談を目にする機会が増える。昭和20年3月10日、約300機の「B-29」が隅田川両岸の人口密集地を焼き払い10万人の犠牲者が出た。

 一般市民が暮らす人口密集地を攻撃目標とする神経も恐ろしいが、何千キロも離れた場所からそれを実行できる米国の国力も恐ろしい。

 爆弾6.6トンを積んで、マリアナ諸島から日本まで片道2500キロの距離を往復できる爆撃機を300機揃える――。

 そんなことは当時の日本にはとうていできなかったし、押し寄せるB-29から日本を守ることもできなかった。

 しかし、日本には太平洋を越えて米国本土を空襲するため、B-29を圧倒的に凌ぐ爆撃機を製造する計画が存在した。

 中島飛行機の創業者中島知久平により構想された「富嶽」である。

 B-29は当時の最先端の航空機であったが、マリアナ諸島から日本を空爆し戻るのがやっとだった。東北地方や北海道は攻撃圏外であった。

 一方、富嶽は日本から離陸し、米国本土を空爆して、そのまま大西洋に抜け、ドイツ占領地域に着陸するというB-29でも不可能な壮大な作戦をすることを想定していた。

 現在の大型旅客機でもそれほどの距離を飛べるものは限られる。