B-36は3500馬力のエンジンを6基搭載し、最高時速は後期型では700キロ近くに達し、航続距離1万5000キロ、最大爆弾搭載量32トン、全長49メートル、全幅70メートル。
日本が全くかなわなかったB-29を圧倒的に超えている。妄想計画だった富嶽に対する個々の項目の単純比較では優劣があるが、十分に対抗できそうな内容である。
富嶽は設計すら固まらなかったのに対し、B-36は終戦5日後の1945年8月20日に機体が完成しロールアウトしている。
もっとも、さすがの米国も3500馬力のエンジンは開発に手間取り初飛行は翌年になった。そして、量産に入り1948年から実戦配備をしている。
米国の航空産業は、戦争に勝つために差し迫った開発や生産をこなしたうえで、当時の世界水準を圧倒するB-29すらはるかに超える超大型機の開発を行っていたのだ。
戦時中の日本の航空産業では、性能が向上していく米軍機に対抗する機種の開発、軍からの改造の要望への対応、一機でも多くを生み出すための生産など、大量の仕事に忙殺され、もう限界という状態だった。
当時の体験談を読むと、技術者は過労で倒れることがあり、生産現場は過重労働で疲れ果てていた。
ヘトヘトになるまでの努力をしても、戦闘機のような小型機すら米国の生産数に遠く及ばないし、ゼロ戦の後継機も満足に作れなかった。
大戦末期には米国では標準になっていた2000馬力級エンジンの安定供給も果たせなかった。B-29を防ぐだけの戦闘機も配備できなかった。
現に存在している米国の航空戦力に対抗することすらできていない状況で、とても、富嶽のような米国の水準を圧倒的に超える巨人飛行機の開発まで手が出るわけがない。