教えたがりの大人たち

「期待」と「驚く」ことの関係について、もう少し考えてみよう。

 赤ん坊が初めて言葉を発したとき、子どもが初めて立ったり歩いたりしたとき、親は驚き、手を叩いて喜ぶだろう。子どもは、赤ん坊ながら、お母さん、お父さんが心底驚き、喜んでくれていることを知る。「驚いてくれた、じゃあ、こんどはもっとすごいことやって、驚かせてやろう」と考えるようになる。乳幼児の急速な発達は、ひとつには、親を驚かせる快感が、成長への意欲にドライブをかけるからだ。

 ところが、子どもが大きくなってくると様子が違ってくる。特に、子どもが言葉を自在に操れるようになると、親は驚かなくなる。言葉で教えることができるようになるからだ。

 子どもが何かできるようになっても「ああそう、じゃあ次はこれね」と、次なる課題を出して、さらなる成長を促そうとする。親としては、自分が道先案内人になって、子どもの成長を促しているつもり。しかし実際には、子どもはつまらなくなる。いくらできることを増やしても、大人は驚かなくなってしまうから。何かできることを増やしても、「それができるようになったの、じゃあ次」と、次の話ばかり。

 驚いてくれないなら、もうやらない。だって、つまらないから。

 そう、大人は、言葉が通じるようになると、言葉で教えようとする。そしてもっと速く成長してもらおうと「期待」するようになる。教えるから、期待するから、大人のマインドセット(心構え)としては、驚きにくくなる。次のことばかり考えているから。それができても当たり前だと考えているから。子どもが何を達成しても、何ができるようになっても、ノルマをこなしただけの無感動になり、驚けなくなってしまう。

 驚きもしてくれない大人のために、子どもは努力しなくなる。むしろ、苦痛になる。期待通りにできるようになっても、またその向こうに果てしない期待があり、どこまで行っても、いつまでたっても、もう親は驚くことはないんだ、驚かせることはできないんだ、ということを知るからだ。

 私は、赤ん坊への母親の接し方が、子どもの教育にも、部下の指導にも最適な形だと考えている。教えず、「驚く」ことの連続だからだ。