アメリカからの巻き返しも強烈なものがあった。当時は冷戦状態にあり、米ソは厳しく対決していた。日本とソ連が仲良くすることは、在日米軍基地を拠点にしてソ連や中国と軍事的に対抗するというアメリカの戦略に齟齬を生じることになるからである。そこでアメリカのダレス国務長官は、1956年8月、ロンドンで重光葵外相と会談し、択捉、国後をソ連のものだと認め、2島返還で決着させるなら、沖縄は絶対に返還しないと宣言したのである。「ダレスの恫喝」と言われている。

 国後、択捉はソ連領と認めないとする「ダレスの恫喝」を受け入れるには、千島放棄を明記したサンフランシスコ講和条約との整合性を図らなければならない。そこで条約起草者であったアメリカ国務省は、新たな理屈を考えたのである。それが「国後、択捉は千島ではない。したがって日本が放棄した島ではない」というものであった。

 吉田首相の答弁や千島歯舞諸島居住者連盟の存在をみても、これが苦しいこじつけであったことは間違いない。

 ここから現在につながる「4島返還」や「北方領土」という言葉も生み出されていったのである。

 だが4島返還では、日ソ交渉は一歩も進まない。そこで1956年10月、当時の鳩山一郎首相が病身であるにもかかわらずモスクワを訪問し、「日ソ共同宣言」を作り上げた。この訪ロによって、ソ連が日本の国連加盟を認めたので、日本は国際社会に復帰することができた。この日ソ共同宣言では、当時のソ連と日本の間で平和条約が締結された後、ソ連は「歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と明記された。これは2島返還で合意したということである。

 しかし、実際には日本は「4島返還」の立場であったので領土問題が進展することはまったくなかった。他方、ソ連は「領土問題は存在しない。解決済みである」という態度に固執し続けることとなった。ソ連時代にも日ソ首脳会談は行なわれたが、領土問題がまともに話し合われたことはなかった。

「北方領土返還!」とは言うが、それは日本国内でのかけ声だけで、まともな交渉などしてこなかったというのが真相である。