ではサンフランシスコ講和条約では、どう書かれているか。その2条C項には、「日本国は、千島列島並びにポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。国後、択捉は放棄したということである。

 寺島氏だけではないが、日本のテレビも、新聞もこの歴史の明白な事実を正直に語らない。そのため、国民の間でも正確な情報が伝わっていないのである。

 では、歯舞群島、色丹島はどうか。西村局長は、「この千島列島のなかには、歯舞、色丹はこれは全然含まれない」と明確に述べている。これは吉田首相も同様であった。歯舞、色丹は千島ではなく、北海道の一部なのである。

 一方、択捉、国後などに住んでいた元島民による「千島歯舞諸島居住者連盟」という組織がある。この名称をみても国後と択捉が千島であることは明白なのである。

なぜ「北方領土」と呼ぶのか

 北方領土という言い方は、地理学的な概念ではない。“北方にある日本の領土”ということを強調するための造語である。沖縄返還運動の際に、「南方領土返還」などとは言わなかった。「沖縄を返せ」とか、「沖縄返還」と言ったものだ。

 なぜそれを「千島を返せ」とか、「歯舞、色丹を返せ」と言わずに北方領土と呼ぶようになったのか。それは前述したように、サンフランシスコ講和条約で千島を明確に放棄してしまったからである。

 ただそうは言っても国後、択捉、歯舞、色丹には終戦時1万7000人が住んでいたのであり、当然、元島民の声に耳を傾ければ「4島返還」という旗印を立てざるを得なかったことも事実である。