讃と珍の正体は誰?
伊藤:さらに、『宋書』によると、460年に遣使があり、462年に興が安東将軍倭国王を授号しています。日本書紀や古事記からは安康天皇がこの時期まで生存されたとは考えられず、通説の比定には大きな矛盾があります。ただ、紀年復元した原日本紀と照らし合わせると、460年の遣使はその前年に即位した允恭天皇によるものと考えられます。
同様に、478年の武の遣使授号は475年に即位(治世元年は476年)した雄略天皇だったと推測されます。宋書は、前年の477年にも遣使朝貢を記していますが、これは安康天皇によるものと私は考えています。
安康天皇は473年に即位し、475年に暗殺されます。即位を知らせるための使者を宋に遣わしたものの、高句麗の百済進攻により道を阻まれ、宋への到着は477年まで待たなければなりませんでした。また、到着した宋も内乱状態でした。
そうこうしているうちに、雄略天皇の遣使が到着し、安康天皇の死を伝えます。そのため、安康天皇は授号することなく、遣使の事実のみが記録されたと考えられます。
──讃と珍の正体についても教えてください。
伊藤:日本書紀を詳細に読み込むと、讃は菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、珍は隼別皇子(はやぶさわけのみこ)ではないかと思える記事が複数確認できます。
日本書紀では讃、珍、済の3人による遣使はすべて允恭天皇の治世でカバーされますが、原日本紀でも3人の遣使は仁徳天皇の治世となっています。五王がヤマト王権の天皇であったとすれば、これは明らかにおかしなことです。済を仁徳天皇と特定すれば、応神天皇と仁徳天皇の間に、消された2人の天皇が存在したということになるのです。
菟道稚郎子皇子は応神天皇の息子です。日本書紀にもその素性や素行が詳細に記載されており、古代日本において重要な人物だったことは明らかです。
日本書紀によると、菟道稚郎子皇子は父である応神天皇の期待を一身に受け、幼いころから百済の学者を家庭教師につけ、帝王学を学んでいた様子がうかがえます。また、崩御する前に、応神天皇は菟道稚郎子皇子を皇太子に指名しています。応神天皇崩御後は速やかに菟道稚郎子皇子が天皇に即位したと思われます。
日本書紀では応神天皇の死後、菟道稚郎子皇子は大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ・後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、最終的に自死したことにされています。しかし、仁徳天皇紀前半の記事などから、実際には天皇に即位し、436年頃までその治世が続いたと推察しました。