推定される済・興・武の正体
原日本紀編纂の段階で、天武天皇が、王朝並立は日本の正史には相応しくないと考え、仁賢天皇・武烈天皇・継体天皇の治世を直列化したのではないかと考えました。
二王朝並立
507年から525年の二王朝並立時期を、507年から523年までは仁賢天皇・武烈天皇朝とし、507年から531年であった継体天皇の治世を524年から541年に修正。532年から571年までの安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇の治世を、543年から571年に適宜短期化したと考えられます。
そこに持統天皇朝以降、日本書紀の編纂が続く過程で紀年延長操作が加えられます。縮められていた治世を本来の治世に戻すのです。ただし並列にはせず、直列のまま紀年延長を加える。すると、仁賢天皇の即位年507年が19年遡って488年になります。
そして、欽明天皇崩御年571年を固定された定点とみれば、507年から571年に圧縮されていた紀年が488年から571年に引き延ばされます。こうして、19年間の無事績年が生じることになります。
──現在では、一般的に済が允恭天皇、興が安康天皇、武が雄略天皇とされています。この通説の不都合な点と、伊藤先生の考える済・興・武の正体について教えてください。
伊藤:結論としては、済は仁徳天皇、興は允恭天皇で、武は通説通り雄略天皇だと私は考えています。これは、あくまでも無事績年削除法によって機械的に復元した原日本紀の編年からの推定です。
『宋書』によると、済が宋に遣使したのは443年のことです。一般的な比定で済が允恭天皇とされるのは、古事記の崩年干支から允恭天皇の崩御年が454年と推定できるからです。日本書紀の允恭天皇崩御年453年とほぼ一致しており、そこに信憑性が認められています。
けれども、原日本紀では422年から450年は仁徳天皇の治世です。つまり、443年の遣使は仁徳天皇によるものと推測できるのです。
『宋書』『日本書紀』『原日本紀』比較