敗戦後、「自国核の保有」を封印したドイツ

 しかしユダヤ人弾圧でアルベルト・アインシュタインをはじめ優秀なユダヤ系科学者たちが亡命。独裁者アドルフ・ヒトラーが目先の戦果のためV2ロケットなどの兵器を優先し、核開発に巨額の予算を投じなかったことから、米国の「マンハッタン計画」に先を越された。

 敗戦後、ドイツは3段階を経て「自国核の保有」を封印する。1954年のパリ協定で西ドイツ(当時)が主権を回復し、NATOに加盟する際の条件として初代首相コンラート・アデナウアーが「ABC兵器(核・生物・化学兵器)を製造しない」と国際社会に約束した。

 冷戦の激化とともに西ドイツ国内でも「独自の核武装」を求める声が強まるが、ソ連との緊張緩和(デタント)を進めたブラント政権下の69年、核不拡散条約(NPT)に署名(75年に批准)した。これにより非核兵器国としての地位が固定された。

 90年、東西ドイツと戦勝4カ国(米ソ英仏)の間で結ばれた2プラス4条約で「再統一されたドイツは核兵器を製造、保有、管理することを永久に放棄する」ことが改めて明記された。ドイツは統一の代償として独自核を獲得する道を断念し、周辺諸国からの信頼を勝ち取る道を選んだ。