どのように人生の最期を迎えるか。そこに自己決定権はあるのか(写真:PlNA/Shutterstock.com)
(松沢 みゆき:在スウェーデンのジャーナリスト)
筆者の母は昨年9月、肺がんで亡くなった。2月に担当医から「余命は今年中くらい」と宣告され、スウェーデンに住んでいる私は6月に日本へ向かい、最期を看取った。「ガン治療をしても、あまり効果は見込めないだろう」とのことだったので積極的な治療や延命措置を断った。
亡くなる日は、夕方ごろから呼吸が苦しそうになり、「こんなに苦しいなら死んじゃったほうがまし」というのが最期の言葉になった。延命治療をしなかったせいなのか、意識ははっきりしていた。
母との思い出は、楽しかったことばかりだ。母の人生は苦労も多く、それほど幸福なものではなかっただろうと思う。が、母と最期の3カ月を過ごすことができたのは、私にとって楽しかったし嬉しかった。
母は認知機能を保ったまま、寝たきりにもならずに亡くなったが、人はどのように最期を迎えるのか、あらためて考えることにもなった。
夫の死因は「餓死」ではないのか?病院を訴えた妻
以前に、スウェーデンの全国紙ダーゲンス・ニーへテル(DN)の医療記事を読んで、ショックを受けたことがある。「何がグスタフ・Bを殺したか」というタイトルの記事で、国内で非常に多くの反響を呼んだ。
記事によると、末期にある重度の入院患者が、病院から何の栄養補給も受けず、何と「餓死」させられたというのだ。
記事のタイトルになったグスタフ・B氏はがんとの診断を受けて入院し、113日後に病院で死亡した。しかし夫が亡くなった後、彼女は、生前にベッドに横たわる夫の写真を見てある疑問を抱いた。
夫のベッドからはプラスチックのバッグ(筆者注:ベッドサイドの尿バッグと思われる)が1つぶら下がっているだけ。ほかのものはない。夫は死ぬ前の1週間、必要な栄養を補給されていたのか?
妻は病院に行き、夫の生前の処置の記録を見せてもらい、その疑問はさらに深まった。記録には生存に必要な栄養補給がなされた形跡はほとんどなかった。
夫の直接の死因は「餓死」ではないのか――。