道徳は科学のように進歩していると言えるのか?
大澤:個人を、家族・親族などに本来的に帰属していると見なすほうが普通ですが、西洋人は個人を基本的な道徳の単位と見なし、個人が意図的に協力関係を結ぶ集団をイメージし、他人の行為も道徳によって評価するようになりました。
そうすると家族や親族に縛られない大きな社会を作ることができる。市場が拡大し、民主主義が形成されたのもそのためです。
なぜ西洋人がそうした特徴を持つに至ったのか。ヘンリックは、その起源をカトリック教会の結婚・家族プログラムにあると見ました。カトリックは家族関係や親族関係を軽視し、弱める傾向があるのです。
実際にヨーロッパの歴史を見ると、親族関係から独立した組織や制度が次々と出てきます。例えば大学、自由都市、修道院などの結社、あるいは国家すら自発的な契約の産物だと解釈できます。
──家族という単位から解放されることで、むしろより大きなコミュニティを形成できるのですね。
大澤:この部分は興味深いですが、根本的な謎が解けていません。なぜカトリックはそれほどまでに家族関係に敵対的だったのか。個人が家族関係から解放されたとしても、その個人をあらためて結合させる力はどこからきたのか。そして、WEIRDのローカルな文化がなぜグローバルなものになったのか。このあたりは説明がありません。
第6章は「50年」です。これは20世紀史、あるいは戦後史です。この章で最も重要な概念は「道徳的進歩」です。ザウアーは、基本的には我々の道徳は進歩していると考えているように見えます。
では、何をもって道徳が進歩しているとするのか。典型は「広がる輪」です。モラルの対象となるメンバーの範囲をより包摂的なものにしていくのです。
たとえば、かつては奴隷や一部の人種の人は道徳の対象に扱われませんでしたが、対象に扱われるようになりました。一方で、ザウアーは「広がる輪」が行き過ぎると倒錯的なことになる場合があることも指摘しています。
いずれにせよ「道徳の進歩」という発想に私はいささか疑問を覚えます。はたして、道徳は科学のように進歩していると言えるのか。
近代以降の道徳の特徴は親族関係を軽視することです。でも、遺伝子の特徴として親族関係が重視されることは自然で、「包括適応度」の概念がそれを説明しています。
人間の進化の中で出てくる動物としての側面を否定するところに近代の特徴があります。本書は、動物に由来する側面とその否定の側面がシームレスにつながっているような印象を与えますが、こうした二つの背反するポテンシャルが隠れているのです。