寺社勢力からも厳しく年貢を納めさせた秀長
もう一つ、秀長に武士への転身を決意させたのが、理不尽な暴力である。
鉄砲を携えた戦闘集団が、秀長たちの暮らす村を襲う。火が放たれて、仲間たちが次々と凶刃に倒れた。
秀長は直とともに、物陰に隠れて難を逃れたが、暴虐の限りを尽くされた村の悲惨な状況をみて、半ば呆然。田んぼに信吉の死骸を見つけると、秀長はそれを抱き寄せて、こう叫んだ。
「わしらが何をした……。何なんじゃこれはー!」
突然、現れた秀吉に「兄者など呼んどらんわ! 要らんのじゃ、役に立たん足軽なんか!」と言い放ち、さらに秀長は「信長も信長じゃ。偉そうなことを言うて、ちっともわしらのこと守ってはくれんじゃないか」と訴えて、こう続けた。
「わしらが米を作らにゃ、生きていけんくせに。だから、わしらは必死に、今年こそ豊作にするんじゃて、必死に……。信吉もあんなに泥にまみれて、これじゃあまりにも惨めじゃ……惨めじゃ! わしらのこと、何じゃと思うとるんじゃ!」
なぜ、米作りで皆の下支えをしている農民が、こんな理不尽な目に遭うのか。卑劣な暴力から家族など大切な存在を守るためにも、秀長は武士になることを決意する。そんな物語が描かれた。
後年、秀長は豊臣政権を支える立場になり、兄の秀吉から大和国(やまとこく)の統治を任されると、「指出(さしだし)」という方法で年貢をとりたてている。
「指出」とは「太閤検地」が徹底される前に行われていた方法で、つまりは自己申告だ。大名が実際に検地を行うのではなく、領内の家臣や寺社などに、それぞれの所領の面積や作人、年貢量を申告させるスタイルとなる。
『多聞院日記』を紐解くと、秀長が寺社勢力に粘り強く、プレッシャーを与えながら、年貢を何度も自己申告させる様子が伝わってくる。
大和には東大寺、興福寺、春日神社、多武峰寺などがあり、寺社勢力の強い地域だけに、その勢力をそぐ必要があったのだろう。それに加えて、年貢を寺社勢力からも平等に納めさせないと不満が高まると、秀長は元農民の立場からそう考えたのではないだろうか。
早々と家を出ていった兄の秀吉とは違い、秀長は村で日々農作業に打ち込んできた。そんな経験が秀長の内政にどう生かされてくるのか。期待してその成長を見守りたい。
そして、秀長が決断を下すにあたって、姉のともが果たした役割も大きかった。当初は「あんたまでいなくなったら、うちらみんな飢え死にだからね」とくぎを刺したともだったが、兄と盗賊を捕まえた話を興奮気味に語る秀長の姿を見て、複雑な表情を見せた。「本当は兄のように自由に生きたいのではないか」と考えたのだろう。
ともは「心配ないわ、うちの人がいるから。この先の村で馬貸しをやっている独り者なんじゃけどね。この家に来てくれるそうじゃ」と自身の縁組を告げて、秀長が旅立てるように、その背中を押すことになった。
実際のともは、尾張国出身の弥助(のちの三好吉房)のもとに嫁いで、秀次、秀勝、秀保の三男をもうけている。豊臣政権にとって、重要な子たちとなるが、それはまだまだ先の話である。