豊臣兄弟が何かと衝突した「織田家の重臣」
放送からどのくらいのタイミングで、信長が「本能寺の変」で倒れるのかは分からないが、その前後で大きく展開が変わることは間違いない。
前半においては、前述した「墨俣城の築城」にしろ「金ヶ崎の退き口」にしろ、信長のむちゃ振りを秀吉が引き受けて、秀長が「兄者、勘弁してくれ!」と困惑しながらも奮闘せざるを得なくなる──。そんな光景が目に浮かぶが、信長の死後は「いかにして秀吉が事実上、織田家を乗っ取って天下人になったか」というプロセスに、秀長がどう絡んだかに注目したい。
信長を死に追いやった裏切り者の明智光秀をいち早く討ち、ここぞとばかりに台頭する秀吉。その前に立ちはだかるのが、信長の重臣・柴田勝家である。
勝家は、長政亡きあと未亡人となっていた信長の妹・お市の方を嫁に迎えている。『柴田勝家公始末記』によれば、このとき勝家は62歳で、お市の方は37歳だったという。
長政とお市の方との間に生まれた3人の娘のことも、勝家は大切にしたと言われている。この3人の娘が「茶々・初・江」の浅井三姉妹で、井上和演じる茶々は、のちに秀吉の側室となり、豊臣家で大きな役割を果たすことになる。
信長亡きあとのイニシアチブをとった秀吉は、柴田勝家と激突。「賤ヶ岳の戦い」において秀吉が勝利したことはよく知られているが、勝家が戦をしかけてきた時、秀吉は不在だった。織田信孝を討つために、美濃の大垣城へと向かっていたのだ。
秀吉軍が駆けつけてくるまで、柴田勢の攻撃をしのいだのが、弟の秀長である。近江と越前の国境付近に築いた砦において、秀長がどんな戦をしたのか。見どころの一つだが、実は以前にも、豊臣兄弟と勝家の間には因縁があった。
賤ヶ岳の戦いからさかのぼること約6年、1577(天正5)年のことだ。加賀国・手取川周辺で、上杉謙信軍と、柴田勝家率いる織田軍が激突した。
「手取川合戦」と呼ばれるこの戦において、秀吉が「正面衝突は避けるべきだ」と意見を述べたところ、勝家は「怖くなったのか?」と挑発。腹を立てた秀吉は秀長に相談のうえ、兵を引き上げたという。
突然の“職場放棄”に信長が激怒したことは言うまでもない。『信長公記』では「秀吉は進退に窮した」とまで記されている。もっとも、上杉方の史料では秀吉の善戦が伝えられているなど、手取川合戦は実態がまだよく分かっていない。
いずれにしても、秀吉と勝家で激突するのは、両者ともに複雑な気持ちだったことだろう。ドラマの前半では、織田家の重臣同士で戦う葛藤も描かれるのだろうか。
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(筆者より)JBpressでは『どうする家康』『光る君へ』『べらぼう』と3年にわたって、大河ドラマの解説記事を毎放送ごとに書いてきました。
今回の『豊臣兄弟!』でも「真山知幸の大河ドラマ解剖」の連載を続けていきます。より大河ドラマを楽しめるように、多角的な切り口で解説を行いますので、ぜひ著者フォローしていただければと思います。よろしくお願いいたします。
では、『豊臣兄弟』の放送を楽しみましょう。
【参考文献】
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(竹内理三編、臨川書店)
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)