唯一の文官として処刑された広田の最期

 南京事件に関わったとされる松井もまた、仏教に深く帰依したと言われている。南京攻略後に帰国した松井は退役し、熱海の伊豆山に移住した。そして私財を投じ、自宅近くに、日本と南京の土を混ぜ合わせてつくった常滑焼の「興亜観音」を建立した。

 松井はそこで朝夕の1日2回、参拝するほどであったという。一説には松井は、南京時代の兵士の亡霊に悩まされていたとも伝えられている。その松井の辞世の句からも、仏教への信仰が垣間見える。

「天地(あやつち)も 人もうらみず ひとすじに 無畏(むい)を念じて 安らけく逝く」(天も地も人も恨むことなく、仏法に導かれて恐れることなく、安らかに逝こうではないか)

 7人のうち6人は念仏を称えながら処刑された。だが唯一、広田弘毅だけが静かに処刑を受け入れたと語られている。花山にたいし「すべては無に帰す。今更何も言うことはない。自然に生きて自然に死ぬ」と独自の境地で最期を迎えた。

 東條や松井ら軍人6人と、ひとりだけ文官として処刑された広田との対比は、その最期を迎える際にも対照的であった。

 処刑された7人の遺体は、同日午前2時10分にトラックに載せられて巣鴨を出発した。午前3時40分頃に横浜市の米軍第108墓地登録小隊(現横浜緑ケ丘高校)に到着して、遺体は仮置きされた。

 世が明けた午前8時すぎ、横浜市西区の久保山斎場に運ばれ、火葬された。拾骨された遺骨は7つの骨壷に入れられ、しばしの間、斎場に安置された。

 ところが、戦犯の弁護士らが米兵の目を盗んで7つの骨壷から少しずつ、遺骨を取り出したという。米軍から「殉教者化を防ぐため墓を設けることを避け、遺灰を海に処分せよ」との指令が出ていた。弁護士らはこっそりと、東條らを祀る場所を作ろうと考えていた。

 だが、取り出した遺骨を前に、線香を焚いたのがまずかった。米兵が、線香の匂いに気づき、取り上げてしまった。そして7人の遺骨を1つに混ぜて、火葬場の残骨灰を入れる穴に放り込んだのである。