戦時中、多くの人がウズベキスタンへ疎開

 このホームには、土地柄、レニングラード包囲戦を生き延びた人が多く入居している。

 レニングラード包囲戦は1941年9月8日から1944年1月27日まで続き、町をドイツ軍に囲まれ、300万人の市民のうち3分の1が命を落としたとも言われている。

 当時、レニングラードの子どもたちはウズベキスタンに集団疎開した。

 スルハンダリヤ州では5000人ほどを受け入れた。スルハンダリヤは年中太陽が輝き、レニングラードとは真逆の気候である。

 そのような場所で青春時代を送り、現地で仕事を見つけた人もいれば、結婚した人もいる。首都タシケントには、レニングラードの子どもたちを記憶にとどめるための記念碑もある。

 ホームの入居者はほとんどが女性で、「若い時サマルカンドに行って、素晴らしかった」とか、「タシケントで夫とデートしたわ」などと、おしゃべりが尽きない。

 高齢のロシア女性たちにとって、ウズベキスタンの文化は、ノスタルジーを感じさせるものである。

 慰問事業の後は、カザンと呼ばれる大鍋で作った熱々のプロフ(チャーハンのようなウズベキスタンの郷土料理)に舌鼓を打った。

 カザンは建物内に持ち込めないため、マイナス10度の中庭で調理を行った。羊肉など、材料はすべてウズベキスタンから運んできた。

中庭でプロフ作り

移住した韓国人、一帯一路の中国

 ほかにウズベキスタンが文化的な親近感を持つ国は、韓国である。

 ソ連時代の移住政策のせいで、ウズベキスタンに韓国系住民が多数住んでいることもあり、歴史的なつながりを基盤に、多くの投資を呼び込んでいる。

 中国は最大の貿易相手であり、中国が進める一帯一路政策にも関わることから、互いに実利を重視している。

 サウジアラビアともエネルギー開発分野で近年協力を進めている。両方ともイスラム文化圏だが、ウズベキスタンは女性の起業や海外留学を政府として推し進めており、かなり穏健的だ。

 とにかく敵を作らず、どの国とどの分野で協力するか慎重に見極め、トータルでの国益を見て行動しているのである。

 ウズベキスタン大手企業の幹部の中には「日本とは信頼関係が増している気がする」と話す人もいるが、「テーブルに座るだけでなく、実際に参加してほしい」「協力を始めるため、何をクリアしたらいいか言ってほしい」という、コミュニケーションの難しさを指摘する声も聞かれた。

 日系企業関係者も、ウズベキスタンへのコミットが「日本は遅れている」と話す。

「中央アジア+日本」が一つの契機となり、ウズベキスタンと互いにメリットのあるプロジェクトが生まれることを期待したい。