韓国でよく聞かれる「ナラマンシン」の意味

 この国でよく聞かれる言葉は「ナラマンシン」、国家の恥だという意味だ。だから、金海空港の募金すら個人の美徳としてではなく、国を巡る駆け引きに変換されてしまう。

 韓国人の会話を聞いていると、個人の善意さえも国家論に巻き込まれ、吸い取られていく理由が垣間見える。

 日本では、国家というものは本来「自分の生き方の延長」にあった。街が綺麗であれば、そこに住む人の態度の結果だと考える。治安が良ければ、国民がルールを守っているからだと思う。日本では国家は、国民の鏡である。

 国家運営がうまくいっていなければ、自分たちの生き方や態度が問われる。国を誇るために自分を飾るのではない。自分が恥ずかしくないように生きることが、結果として国を積み上げるという感覚があると思う。

 日本の現在の国家観を筆者が語るには、おこがましいのでここでは控えるが、筆者が外から見ていると、平和ボケと呼ばれていた平成時代に比べ、前々回の参議院選挙の頃から「自分が変われば国も変わる」と再び考える人が増えているようだ。

 それに対して韓国は、「国家がいい方に転んだときは、自分も便乗して気分が良くなり、国家が悪い方へ転んだときは、自分以外の誰かが何かをしたせい」という理論が働く。

 韓国に暮らしていると、こうした国家観の違いが、日常の些細な会話にも顔を出す。たとえば、美容院での雑談からママ友同士のSNSまで。政治や外交に興味が薄い人でさえ、「国がどう動くか」によって自分の運勢や立場が変わるかのように語ることがある。

 そこでは個人の努力よりも「国家の調子」が先に来る。日本人のように「自分はどう生きるか」から話が始まるのとは、明らかに順序が違うのである。この順序の差が、国家と個人の相関関係を決定づけている。