「自分」が登場しない韓国の文明論
今回の寄付の話題から、韓国ではさらに“文明論”まで語られた。
「大陸に近づくほど野蛮人で、島国に行くほど文明人が育つ。島国は野蛮が嫌で逃げだした文明人が住み着くところ。半島は野蛮と文明が衝突する場所だ」
韓国に住む筆者には、この意見が理解できないわけではない。朝鮮半島が長い歴史の中で侵略を受け続けてきた事実があるからだ。しかし同時に、こう思ってしまう。こういう発想そのものが韓国人らしい、と
彼らの文明論には「自分」が登場しない。文明とは大陸か島国かで決まり、自分たちはその地政学的な状況に巻き込まれた被害者に過ぎないという考え方である。つまり「自分たちがどう生きてきたか」ではなく、「どんな土地に生まれたか」で文明か野蛮かが決まるという理屈だ。
韓国はグローバル化と、ネットインフラの速さを日々自慢しているような国であるにもかかわらず、である。
責任や努力はどこにも語られず、地理のせいに置き換えられる。それが理論という形でまことしやかに語られる。この理論の主は韓国を脱出した人か、脱出したいと思っている人だ。壮大に見えて「主体不在の自己説明」にすぎない。
韓国の国家観は、いわば国家が成功すれば「ウリナラマンセー」、失敗すれば「他人が悪い」というものだ。そのため、韓国人にとって「国家は自分を上げ下げする他者」であり、韓国が海外で評価されると、次のような反応になる。
「ウリナラマンセー!」「韓国は誇らしい!」。だが、不祥事や不都合があれば手のひらは一瞬で返る。「政治家が悪い」「誰のせい?」「外の勢力が邪魔した」。
良い結果は自分の功績、悪い結果は他人の責任。韓国において「自分」という主体は、成果には乗るが失敗には参加しない。