晩年は思う存分に文化を楽しんだ松平定信
私はかつて『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』という本で、田沼意次を弁護したことがある。今回の『べらぼう』も、蔦重が主人公ということから、意次のやり手ぶりが知られるきっかけになるのではと考えていたが、その期待に十分に応えてくれる展開となった。
その一方で、松平定信が敵役になるのだろうとも予想した。蔦重に身上半減の処罰を下したことや、意次と激しく対立したという史実があるからだ。
それだけに『べらぼう』で定信がこれほど人間味あふれる人物として描かれるとは予想しておらず、驚いた。カタブツで融通が利かないイメージはそのままに、文学愛好家だった実像にクローズアップした。
今回の放送ラストでは、白河藩に戻ることになった定信が耕書堂を訪れて、蔦重にこんなことを言った。
「金々先生よりこちら、黄表紙は漏れなく読んでおる。春町は我が神……。蔦屋耕書堂は神々の集う神殿(やしろ)であった」
さらに、結果的に春町を死に追いやったことについて「あのことは我が政、唯一の不覚である。上がった凧を許し、笑うことができれば……すべてが違った」と胸中の後悔を告白。蔦重はこう応じた。
「写楽ってなぁ、春町先生への供養のつもりで取り組んだのでございます。春町先生をそそのかし、でっけえ凧上げさせちまったのは私にございますんで」
蔦重が「ご一緒できて、ようございました」と深々とお辞儀をする姿には、胸がじんとするものがあった。
ドラマにあったように、定信は老中を退いたのち、白河藩主として藩政に専念することになる。
幕政から離れても相変わらずの改革派だったようだ。財政難をなんとかしようと、下級武士や農民、家臣たちの子女による内職を推進。煙管づくりや織物、薬草栽培、たたら製鉄といった仕事を支援することで、藩の収入につなげている。
さらに藩校・立教館を建てたほか、敷教舎(ふきょうしゃ)を設立して「手習い」「算術」「儒学」などを庶民に開放するなど、教育事業にも取り組んだ。身分に関係なく憩える場所として、南湖公園を造営したのもこの頃の定信である。
一方で、作家や画家らのクリエーターの支援も行った。享和3(1803)年には江戸の賑わいを描いた『東都繁盛図巻』を、数年後には、職人の仕事ぶりや庶民の生活を描いた『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)』を、美作津山藩松平家の御用絵師・鍬形蕙斎(くわがた けいさい)、つまり北尾政美(きたお まさよし)に描かせている。
定信は吉原の遊女の一日を描いた『吉原十二時絵詞(よしわらじゅうにときえことば)』の制作も依頼しており、絵は鍬形蕙斎、詞書は山東京伝が担当している。自身を「手鎖50日」に科した定信からのまさかのオファーには、京伝も驚愕したことだろう。
その後、家督を嫡子に譲ると、江戸築地にあった松平家の下屋敷に住居を移した。自ら「楽翁」また「花月翁」と称して、読書や著述にふけったという。