西郷の家格と武士の窮乏

 薩摩藩の社会構造の最大の特殊性は、武士階級が全人口の25%以上という、全国平均(5~6%)を遥かに上回る割合を占めていたことであった。藩士は、鹿児島城下に住む城下士(鹿児島衆中)と、領内の百十余りの外城(郷)に住む郷士(外城衆中)に2分された。

 当初、両者に身分差はなかったが、時代が下るにつれて城下士が格上となり、郷士を蔑視するようになった。西郷家の家格は下から2番目の御小姓与であり、薩摩武士全体の中では中間程度の身分であった。

 しかし、財政難が常態化していた薩摩藩においては、知行通りに給与が支給されていたわけではなかった。そのため、武士層の困窮は日増しに増し、武士であっても田畑を耕すことは当たり前のことであったのだ。

薩摩藩の農民の実態

 さらに、この膨大な数の武士家族を支えた農民層の生活は、悲惨を極めていたことは見逃すことが出来ない。農村には他藩のような自治組織である村方三役がなかった。村方三役とは、江戸時代の村で行政を担った名主(庄屋・肝煎)、組頭(年寄・長百姓)、百姓代(長百姓・脇百姓)の3つの役職の総称である。

 郷士が直接支配しており、年貢の取り立ては苛斂誅求を極めていたため、農民の中では、他領に逃げ出す者も少なくなかった。一方で、農民一揆はほとんど記録されておらず、そもそも、一揆を起こす余力もないほど圧迫されていたのだ。

 西郷らが活躍した薩摩藩の国事周旋は、農民の犠牲の上に成り立っていたという事実は記憶に留めておくべきである。

 次回は、薩摩藩士のリーダーシップを涵養した郷中教育の教育システムの実態や特徴、また西郷にどのような影響を与えたのかを詳述し、その上で、西郷のキャリア形成に与えた迫田大次右衛門の影響および西郷の政治思想がいかに涵養されたかを追ってみたい。