パーキンソン病患者の反応から何を感じ取るか

──知覚できるかできないかの曖昧で微妙なコミュニケーションですね。

西村:私は研究の過程で、病院内を看護師と一緒に行動することがあります。看護師たちは、朝「ラウンドしてきます」と言って病室を回り、患者さんたちの目を覗き込みます。その時に「入っていますか?」「入っていますね」というやり取りをしています。

「入っている」とはどういう意味かと思い、一緒に患者さんの目を覗き込んでみました。すると、確かに「入っている」という感じがするのです。患者さんの目をこちらが覗き込むと、先方もこちらを見返している感じがするということです。

 それは、ただこちらを見返しているという感じがするということに過ぎないのですが、それだけでも「こちらを分かってもらっている」という安心感を看護師は得ることができます。一方、入っていない状態、つまりこちらを見返している感じがしないと、ちょっとこの先どうしようかと看護師も戸惑ってしまう。

──パーキンソン病が進行し、体をほとんど動かすことができない60代の男性患者を受け持った看護学生Aさんの体験について書かれています。身体がほとんど動かない人とのコミュニケーションとは、どのようなものでしょうか?

西村:看護学生Aさんはこの患者さんの担当になったときに、「今日から私が受け持ちを担当させていただきます」と挨拶に行きました。ところが、声をかけても患者からは何の反応もありません。反応がないので、相手がどう考えているのか想像がつかない。受け入れてもらったのか拒まれているのかも分からない。たんに声が出ないのか、意識的に返事を返さないのかも分からなくなりました。

 指導役の看護師が声をかけると、「うんうん」と答えているような気配をもう少し感じますが、自分が声をかけてもぜんぜん反応がない。こうなると、コミュニケーションを期待する以前に、ここに自分がいるということが認められているのかも分かりません。そういう状態から始まり、やがて次第にそれがコミュニケーションにつながっていく。

 末期状態のパーキンソン病患者さんですから、少し指を動かすことができたり、頷いたりという動きができる時もあれば、全くそれができない時もあります。患者さんを受け持ったばかりの学生はそうしたことも知りません。瞬き、頷き、声など、どこで反応してくれているのか、何をしたら「イエス」「ノー」なのかも分からない。

 ときどき患者が「うぅ」と声を出すのですが、何かを求めているのか、ただ詰まった痰を喉の奥で動かそうとしているのかも分かりません。そうしたかすかなアクションから患者の要望を見極めていくことが実習の入り口で、それがずっと続きます。

 それでもとまどいながら関わっているうちに、看護学生Aさんは患者さんの手に力が入っているか抜けているかで、患者さんがこちらのすることを受け入れてくれているのかどうかを量るようになります。

 これは、すごく微妙なやり取りです。こうした極限まで限定されたコミュニケーションから、私たちも含め、人々が普段何を期待しているのか、何に応じ何を見ているのかということがむしろ際立ってくるのです。