SNSが沸いた『べらぼう』版の写楽誕生秘話とは?

 役者絵の画号を決めるにあたっては、喜三二の「しゃらくさいってのはどうかね」の一言が皆の注目を集めた。さらに蔦重が「この世の楽を写す。またはありのままを写すことが楽しい」という意味を込めて、「写楽」とつぶやく。

 すると、皆で「写楽!」と声を合わせる展開となり、SNSでも「写楽爆誕!」の声が相次ぐなど盛り上がりを見せた。

 史実において、寛政6(1794)年に蔦重は、東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)の手による作品を一気にリリースする。

 それは、役者のリアルな表情にフォーカスした28枚もの役者の大首絵である。歌舞伎役者を美形のスターとして描く従来の役者絵とは、一線を画したもので、役者が持つ特徴をデフォルメし、見る者に大きなインパクトを与えた。

 写楽の代表作『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(さんだいめ おおたにおにじの やっこえどべえ)』は、一度は目にしたことがあるだろう。写楽が「謎の絵師」とされるのは、彗星のごとく現れて、10カ月で約140点もの作品を残したかと思えば、それ以降、現れなかったことだ。

2011年8月、米ニューヨークで開かれた美術品のオークションに出品された東洲斎写楽の大判錦絵5点。左下が『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』(写真:共同通信社)

 写楽とは一体、何者だったのか。喜多川歌麿、葛飾北斎、司馬江漢、山東京伝、十返舎一九……有名な絵師は皆「写楽なのでは?」と疑われることになった。また、写楽がほかの版元と仕事をしていない不自然さから、蔦重が写楽だという説もある。

 そんな中で現在、有力説の一つとされているのが、「斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)」である。江戸末期の著述家、斎藤月岑(さいとう げっしん)が『増補浮世絵類考』で、写楽について次のように書いている。

「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」

 写楽とは八丁堀に住む徳島藩主お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛である――。活動が10カ月で終わりを迎えたことも、自分が仕える徳島藩主にバレたくなかったからだと思えば、説明はつく。

 だが、ドラマでは斎藤十郎兵衛説はとらず、まさかの蔦重プロデュース説でストーリーが展開されたのには驚いた。ドラマでは、幻の絵師「写楽」を創り上げるためのプロジェクトが本格化していく様子が描写された。

 とはいえ、「まるで平賀源内が描いたかのような役者絵」とは、斬新な作風であること以外には、イメージがつきにくい。絵師たちも四苦八苦しながら案を出すが、蔦重は首をかしげるばかり。しまいには「やってられっか!」と言って出ていってしまう者も。

 そこに、蔦重とは決別したはずの喜多川歌麿がていに連れられてやってくるのだから、胸が熱くなるストーリー運びだ。

 歌麿は相変わらず売れっ子ではあったが、どの版元も蔦重のように注文をつけることはなく、ただ作品を受け取るだけで、物足りなさを感じていた。状況的には「注文の多い蔦重」と「ムチャ振りに飢えた歌麿」という、最強タッグが誕生したことになる。

 ここからどんなプロセスで、写楽による役者絵が生まれることになるのか。また、写楽の正体として有力視されている斎藤十郎兵衛が何らかの形で登場し、このプロジェクトに関わるのかどうか。放送も残り数回となったが、注目したい。