ヤクザから救った母娘
――ほかにも管理売春させたことはありますか。
「これは私が沈めたわけではないのですが、心に残る話があります。私が24歳の頃に、ある印象的な女性と会いました。私自身が刑務所から帰ってきてすぐの出来事です。組の部屋住みをしながら、ムショボケ治療に励んでいると、刑務所で一緒だった女から、組の本部事務所に電話がありました。
ロシアとのハーフだったこの女は、東京のヤクザから追い込みがかかり、岐阜に逃げてきたということでした。小さな子どもを連れていますから助けて欲しいと。
私は、本部の前にあったボロアパートの物件を借り、親子を住まわせました。ほどなくして、女の所在を知ったヤクザが追ってきました。私はそのヤクザと会い、『てめえ、大の男が未練がましくしてんじゃねえよ』と、相手の言い分を一蹴しました。すると、そのヤクザは、名古屋にあるバックの大組織を出してきたのです。うちの組の人間が名古屋の組織と話をつけたことから話はまるく収まり、その親子は私が面倒を見ることになりました」
──ヤクザに義理や人情という言葉がまだあった時代ですね。
「親はソープランドで働きだしましたが、私に恩義を感じたのか、毎日、稼ぎの半分を私に持ってくるようになりました。これにはさすがに閉口しまして、『毎日カスリを持ってこなくてもいい』と言いましたが、その子は聞きません。上の人間に『これじゃあ、女のヒモやん』と言うと、『それもヤクザの器量やで』と言われたので、黙ってもらうことにしました。
20歳頃の西村氏。組事務所で親分の盃を受けたとき
この話には後日談があって、ヤクザ人生の中でも〈いいことしたな〉と思えた出来事がありました」