平賀源内生存説 ①静岡生存説
なんとも空気が読めない登場となった貞一だが、失意の底にある蔦重と、その妻のていを、思わぬかたちで元気づけることになる。
つれない蔦重になんとか近づこうと、貞一は大きな凧を差し出して「凧は凧でもただの凧じゃねえでっせ。これを作ったのは、かの平賀源内」と言い出した。蔦重の目にわずかに光が宿ると、さらにこう説明している。
「これは相良凧(さがらだこ)と申しまして。相良ってのは前に田沼様が収めていたところでございまして」
瑣吉が「平賀源内はとうの昔に死んでおろう!」と言うように、源内は小伝馬町の牢内で獄死。その地にあった総泉寺の墓に葬られているはず。
東京都台東区にある平賀源内の墓(写真:a_text/イメージマート)
だが、貞一は「それがどうやら生きてるって話でして」と得意顔。蔦重は貞一の話に完全に心をつかまれたようだ。
現在の静岡県牧之原市にあたる相良藩は、確かに田沼意次の領地で、おかめ・ひょっとこ・鶴・亀・鯉金などをデザインした「相良凧」が伝承していることも事実だ。
獄死したはずの源内が相良に隠棲して相良凧の改良に携わった──という言い伝えも残っており、浄心寺(静岡県牧之原市)には源内のものと伝わる古い墓石まで存在する。
明治10年代には、儒学者の東条琴台(とうじょう きんだい)が『先哲叢談続編(せんてつそうだんぞくへん)』を刊行。「源内は脱獄して遠州に行方をくらました」としている。遠州で源内は医術に携わりながら80歳を超えても生きた──とし、「静岡生存説」を唱えた。