かつてはインターネット、今はAI
その反省から、次のバーゼルⅢの枠組みでは、起こり得ると考える非常事態がそれまで以上に深刻なものへと変えられたし、その備えも厚めにすることが求められた。そして、思わざる事態でも銀行の資金繰りが枯渇することのないよう、十分な流動性を常に保持することも求められた。
そのように厳しい規制となったが故に、最初の大枠が決まってからもう15年が経つにもかかわらず、米国では全面的には受け入れられていない。むしろ昨今の規制緩和の風潮の中で、いかに緩めるかという話になっている。
20年も経つと、危機の記憶も薄れる。そうした中で、直近の経験だけから不必要と思われる規制は緩めようとの議論にもなる。金融機関側がまずそういう気持ちになるし、それを受けて、行政の側も次第に変化していくのである。こういう展開が、最近、自分が気持ちの悪さを感じる1つの背景となっている。
もうひとつは、1990年代後半のITバブルに類似していて、新しい技術に対する金融市場の評価が日ごと高まり、その関連株を今買わなければ乗り遅れるといったムードが拡がっている点である。言うまでもなく、当時はインターネット、今は生成AIがその新しい技術である。
30年も経てば、インターネットそのものが、企業にとってどこまで新しいキャッシュを生み出す技術だったかも冷静に評価することができる。今やインターネットは水や空気のようなもので、それがなければ現在成立しているデジタルでのサービス供給が全くできなくなってしまうことも事実だ。
1990年代後半の当時、インターネットという新しい技術が生むビジネスの価値をどこまで正確に予想できていただろうか。いずれにせよ、黎明期にその技術に賭けて勝者となっていなければ、今日、プラットフォーマーと呼ばれる一連の企業群も存在しない。一方で、当時盛んに投資された全ての企業が生き残っているわけではない。バブルが起きていたことも事実だ。
生成AIもきっと同じだろう。30年、いや技術進歩のスピードが加速しているのでその半分かもしれないが、それくらいの時間が経てば、この技術も空気や水のようなものになっているだろう。現在、関連分野に大規模に投資している企業の全てが生き残り、新しい技術で十分なキャッシュを生むビジネスを続けているとは限らない。しかし、この投資競争に勝たなければ、15年後、30年後がないこともまた事実だ。