「敵」に対して寛容だった初期の清朝
1616年、満州の諸部族を統一したヌルハチは、後金を建国した。その子ホンタイジは1636年に皇帝に即位し、国名を大清帝国に改めた。1644年には北京に首都を移転し、中国本土を侵略、最終的に台湾まで獲得した。
また、中央アジアには強大な遊牧国家ジュンガル帝国があり、モンゴル高原やチベット高原をめぐって清朝は激闘を繰り返した。清朝の支配層は、筆記や面接試験を好成績で合格した官僚だけではなく、最前線で決死の覚悟で戦う武将だった。清朝では戦地で戦略的思考や外交、特に異民族との接し方を学んだ。
1649年、ロシアのハバロフがアムール河流域にいた、先住民を虐殺した。1651年には清朝の要塞を奪ってアルバジンと名付け、一帯を占領した。ロシア兵は残虐で「羅刹(らせつ)」と呼ばれた。なお、アルバジン要塞は、函館の五稜郭と同じく、西欧式の星形をしていた。
1652年に清軍はロシア軍と交戦し、敗北した。その後、戦闘は断続的に続き、外交交渉は行われたものの、1685年と1686~87年にアルバジン攻囲戦が勃発した。清朝が優勢だったが、最終的に清軍は包囲をといた。
そして、1689年にネルチンスク条約が結ばれ、ロシアはアルバジン要塞を放棄し、外興安嶺を国境とした。清朝とロシアの関係が対等であるとし、貿易も許可した。優勢な情勢だったのに、ここまでロシアを遇するのは異例のことだ。
このときに清軍が敵を徹底的に追い詰めず、逃げ道を与え、外交交渉でも高圧的な立場を取らなかったことが、長く続く清とロシアの関係につながった。この17世紀後半の対ロシア戦争は、モンゴル、朝鮮、台湾の兵まで動員するなど清にとって総力戦だった。それでも恨んだりせず、貿易を望むロシアを受け入れたのである。