1985年に提出されたスパイ防止法案の中身
かつて自民党が成立を図ったのは、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律」です。「国家秘密法」や「スパイ防止法」と称され、1980年から党内で正式に研究が始まりました。
動きが加速したのは1984年。安倍晋三元首相の祖父・岸信介元首相を会長とする「スパイ防止のための法律制定促進議員・有識者懇談会」が発足し、法律制定への旗振りを始めたのです。
スパイ防止法の制定には、旧統一教会と関係の深い反共産主義の団体「国際勝共連合」が強い後押しを続けていました。
勝共連合は全国の地方議会に対し、スパイ防止法の早期実現を求める意見書の採択を繰り返し要請。その間、「スパイ国民防止法制定促進国民会議」という政治団体は、スパイ防止法の制定を求める全国3000万人署名運動などを展開していました。
この政治団体に対しても、国際勝共連合は1979年の1億6000万円を皮切りに、1980年代の半ばまで毎年2380万〜6200万円の資金を提供していたことが公的資料で判明しています(朝日新聞1986年9月3日朝刊)。
このように、自民党保守派や統一教会系団体の強いバックアップを受けつつ、スパイ防止法案は1985年に国会提出されました。その概要は下表の通りです。
表:フロントラインプレス作成
当時、法案の中身が明らかになると、各界から強い懸念が示されました。
議論の焦点になったのは、法案の第6条で「外国に通報する目的をもって、国家秘密を探知、又は収集したもの」をスパイと明示したこと。自民党の解説書では、「外国に通報」とは外国の政府・機関・外交官らが「知りうる状態になること」と定義されていました。つまり、「結果的に外国がわが国の防衛秘密を知りうるもの」であれば、それが通常の言論活動であっても「通報」に該当する可能性があるとされたのです。
日本国内での評論、報道、研究発表、演説などはすべて外国が知りうるわけですから、法案やその解釈が明らかになると、各界から「言論統制法だ」「戦前の治安維持法の復活ではないか」といった懸念が噴出しました。
また、法案では「不当な方法」で国家機密を探知・収集し、「外国が知りうる」状態にしたものに無期または3年以上の懲役、その行為によって「我が国の安全を著しく害する危険を生じさせた」ものには死刑または無期懲役を科すとしていました。しかし、法律に違反するという意味での「不法な」「違法な」方法ではなく、非常に漠然とした「不当な」方法を処罰の対象にしたことも、「限りない拡大解釈を生む」として強い反発を浴びました。
法案は結局、野党の強い反対や自民党内の慎重派などの動きにより、実質審議に入れないまま廃案となりました。その後、自民党の保守派は中身を修正した法案をつくりましたが、党内をまとめきることができず、スパイ防止法制定に向けた機運は沈静化していったのです。
当時、反対の先頭に立っていた日本弁護士連合会は修正法案の内容を確認したあとの1987年、修正法案にも反対する決議を採択し、「依然として秘密の範囲・行為類型が広範囲・無限定」と強調しました。法案に盛り込まれた「過失」「未遂」「陰謀」「教唆」「煽動」の規定が極めてあいまいで、法としての基本ができていないと酷評したのです。