対局が行われた京都・東山の南禅寺の境内の一角にある「南禅院」。写真は、近くの琵琶湖疎水の水路閣 撮影/田丸 昇(以下同)
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(田丸 昇:棋士)

「世紀の一戦」

 88年前の1937年(昭和12)2月5日。伝説の棋士・阪田三吉と花形棋士の木村義雄八段の対局が、京都・南禅寺で始まった。16年の沈黙を経て登場した阪田と最有力の名人候補の木村の勝負は、「世紀の一戦」として社会的にも注目された。

 阪田八段は1925年(大正14)、関西の政財界の有力者に後押しされて名人を宣言した。しかし、関根金次郎十三世名人らの中央棋界は「阪田の名人自称は暴挙」と非難し、名人を取り下げない阪田との絶縁を決めた。その結果、阪田は中央棋界の棋士との対局の場を失った。以後は「関西名人」と名乗り、棋界の表舞台から退いていた。

 1935年(昭和10)3月に関根名人が勇退し、名人を実力で決める(以前は終身名人制)名人戦が創設された。土居市太郎、花田長太郎、金子金五郎、木村義雄らの9人の八段の棋士たちは、同年6月から2年がかりでリーグ戦を戦った。主催者は東京日日新聞と大阪毎日新聞(いずれも毎日新聞の前身)。

 読売新聞の将棋担当記者の菅谷北斗星は、長いこと孤高の存在だった阪田と水面下で話し合い、棋界への復帰を10年がかりで交渉していた。阪田の将棋と人柄を愛した菊池寛(作家・文藝春秋創業者)も、阪田と会って復帰を説得した。そして1936年、阪田は「将棋を指してもいい」と菅谷に伝えた。

 菅谷は名人戦リーグで優勝候補だった木村八段、花田八段との特別対局を企画した。両者は以前から阪田との対局を希望していて、阪田にも異存はなかった。

 将棋大成会(当時の日本将棋連盟の名称)と名人戦主催紙は、その企画に猛反対した。阪田にもし敗れたら、新名人の権威に傷がつくからだ。

 当の木村は、「阪田氏との対局は千載一遇の好機。勝負よりも会心の棋譜を残すことで、棋士としての本懐を達せられる。大成会員としていけないのなら、個人の資格でも指したい。もし敗れたら、名人を推されても辞退する……」と決意を述べたという。

 木村と花田が大成会からの脱退もいとわぬ覚悟を示すと、大成会は分裂を怖れて仕方なく了承した。

 読売新聞は阪田の特別対局が決まった1936年12月、《将棋界空前の大手合 待望の巨人今ぞ起つ!》という見出しで大きく報じた。ちなみに阪田の対局料(2局分)は、現代の貨幣価値で約3000万円だという。木村らの対局料は約500万円だった。