95年の宗教法人法改正は、オウム真理教などの凶悪事件に伴って行われたものだが、創価学界・公明党への批判も激しいものがあった。私自身、この年に参院議員に初当選したのだが、宗教法人等に関する特別委員会で創価学会・公明党を批判する論戦を行ったものだ。自民党は共産党以上に激しく反学会キャンペーンを行っていた。

反学会キャンペーンが自公連立誕生の一因に

 小沢一郎氏が主導する細川政権は短命に終わった。唯一の実績といえるのは、「政治改革」と称して小選挙区比例代表並立制を自民党の河野洋平総裁と合意して導入したことだけであり、寄り合い所帯の弱点を次々とさらけ出していった。加えて細川氏自身の金銭スキャンダルが暴露され、政権発足からわずか9カ月で退陣に追い込まれた。

 その結果、副総理兼外相だった羽田孜氏が総理の座を引き継ぐが、小沢一郎氏と対立していた村山富市氏率いる日本社会党が連立から離脱したため少数与党政権となり、1994年4月から6月までの2カ月で退陣に追い込まれてしまった。

 政権復帰を目指す自民党は、日本社会党、新党さきがけ(代表:武村正義氏)と連立政権を組むことで合意した。その上で首班に選ばれたのが日本社会党の村山氏であった。この政権は94年6月から96年1月まで続いた。この後は、同じ自社さの枠組みで橋本龍太郎氏が総理の座に就いた。

 1996年10月に実施された衆議院選挙で自民党は議席を伸ばし、社会民主党(96年1月に日本社会党から改称)、新党さきがけは議席を減らしたため2党は閣外協力に回り、自民党単独政権となった。

 だが98年の参院選で橋本首相の減税を巡る発言が迷走を繰り返したため自民党は、17議席も減らしてしまい、橋本内閣は総辞職することになった。この後を受けたのが同じ派閥の小渕恵三氏だった。当初は単独内閣として発足したが、首相指名選挙で参院では民主党代表の菅直人氏に敗北した。参院では少数与党としてのスタートだったのだ。