そもそも創価学会が母体だった

 公明党の結党は1964年ですが、その10年前から創価学会による政界進出は始まっていました。

 公式HPの資料などによると、日蓮大聖人の仏法を信奉する仏教団体の創価学会は、1954年に文化部を設置。その部署が中心となって地方議会から進出していきます。翌1955年の統一地方選では、文化部員54人が各議会に立候補。1人以外は全員当選するという華々しいスタートを切りました。

図:フロントラインプレス作成

 その勢いに乗り、文化部は1956年7月の参院選で初めて国政選挙に挑戦します。東京と大阪の選挙区に1人ずつ、全国区に4人の計6人が立候補。大阪と全国区2人の計3人が当選しました。とくに大阪では大方の予想を覆し、社会党の現職や自民党の元職といった有力候補を破っての当選となり、「“まさか”が実現」(朝日新聞1956年7月9日大阪本社夕刊)と世間を驚かせました。

 その後も創価学会は地方議会などへの進出を強め、1962年に政治団体「公明政治連盟」を結成します。当時の創価学会は全国で約270万世帯を数え、毎月5万〜10数万世帯も増加していたとされています(読売新聞1962年7月3日)。そして、1964年にはこの政治連盟を衣替えする形で公明党が誕生しました。

 同党の「写真で読む公明党の55年」によると、「公明党は池田大作創価学会会長(当時)によって創立された」政党です。約1万5000人が参加して東京・両国で開かれた結党大会では「大衆福祉の公明党」「日本の柱公明党」というスローガンの下、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」という立党精神を確認。そして、「仏法の絶対平和思想、すなわち王仏冥合(おうぶつみょうごう)の大理念のみが、世界を戦争の恐怖から救いうる唯一の道なりと、われわれは強く確信する」という結党宣言を採択しました。

 当時はまだ戦後20年足らず。国民の間には「もう二度と戦争はしたくない」という考えが浸透し、反戦平和の実現は大きな政治課題でした。同時に、東西冷戦を国内に反映させたかのような「自民党VS社会党」という図式に当てはまらない「中道政治」も求められていました。

 公明党はその声に呼応する形で議会勢力を伸ばしていきます。1967年の衆院選では、初挑戦だったにもかかわらず、一気に25議席を獲得。国政の主要政党として躍り出る形となりました。

「王仏冥合」:政治を意味する「王法」、生命哲学の思想であり日蓮大聖人の教えである「仏法」。この2つを融合させ、社会の繁栄と個人の幸せを一致させるという政治理念を指す。