かつては「反自民」で中道政治を推進
結党時から1980年代にかけ、公明党はさまざまな政策課題に取り組みました。イタイイタイ病患者の救済と公害問題での政府追及(1967年〜)、児童手当創設への取り組み(1968年〜)、小中学校の教科書無償配布実現への働きかけ(1969年)……。中心になっていたのは、環境や人権、福祉、教育などの分野です。
また、日本国憲法の改正に反対する立場も貫いていました。支持母体の創価学会の創設者らは戦前、治安維持法違反で特高警察に逮捕・投獄され、1人は獄中死しています。そんな経験もあって「護憲」を崩さなかったのです。
そうしたなか、公明党は「反自民・非共産」の立場を鮮明にし、中道政治を本格的に推進するようになっていきます。自治体の首長選や国政選挙の選挙区では、日本社会党や民社党と協力する「社公民」路線を推進。野党協力によって自民党政治に対抗しました。
さらに、その時々の政治状況に応じて「中道革新政権構想」「社公民連合政権構想」「社公政権構想」などを打ち立て、野党による政権奪取の道を探っていたのです。
衆院選では1969年に47議席を獲得し、第3党に躍進。1983年には過去最多となる59議席にまで伸長しました。一方、地方議会でも伸びが続き、1975年の段階で地方議員の総数は約3300人に達しています。
もちろん、順調な話ばかりではありませんでした。結党前後の選挙では、支持母体である創価学会員が違法なビラまきや遊説、買収などに関与したとして、公職選挙法違反でたびたび摘発されます。さらに大問題となったのが「言論出版妨害事件」でした。
事件は1969年に起きました。明治大学教授で政治評論家の藤原弘達氏が公明党・創価学会を批判する書物「創価学会を斬る」を出そうとしたところ、批判本の出版を恐れた公明党側が出版社や取次、書店などに対して本を売らないよう一斉に圧力をかけ、藤原氏の言論を封じ込めようとしたというものです。
当時の公明党委員長・竹入義勝氏は自民党幹事長だった田中角栄氏に協力を要請。これを受け、田中氏は筆者に内容の書き換えを求めたり、初版本全ての買い取りを提案したりしました。この問題は国会でも議論となり、他の出版物でも妨害の疑いがあったことが露呈します。
最終的には創価学会会長だった池田大作氏が謝罪して一件落着となりましたが、自民党は池田氏の国会喚問を画策。「反自民」だった公明党はこれを防ぐため、自民党との折衝を重ねた経緯もあります。