なぜ、「反自民」の旗を下ろしたか

 1990年代に入ると、自民党単独政権の時代は終わりを告げます。まず、1993年の衆院選で自民党が敗北すると、野党側は日本新党や新生党、日本社会党など非自民・非共産の8党が連立する細川護熙内閣が発足。公明党もこれに参画して4人が入閣し、続く非自民の羽田孜内閣でも6人が入閣しました。

 その後、1994年に自民党・社会党・新党さきがけによる「自社さ」が発足すると、公明党は新進党に合流し、政権を離れます。ところが、自社さ政権が自民党単独政権に戻ると、新進党は解党。公明党は再び1つの政党となりました。

 それが1998年11月のこと。その翌年1999年10月に自民党の小渕恵三・第2次改造内閣が発足すると、自民党と連立を組み、公明党の続訓弘(つづき・くにひろ)氏が総務庁(現・総務省)長官として入閣しました。当時は、小沢一郎氏が率いる自由党も加わった「自自公」政権でしたが、これ以来、公明党は自民党との協力関係を崩さずに政治を続けてきたわけです。

 公明党が自民党と組んだとき、当時のメディアは「この政権を、ひとりの人間に見立てると、公明党が足腰、自由党が頭、そして自民党は真ん中の胴体、ということになるのではないか。公明党との連立には、創価学会の安定した集票力への期待が込められている」(朝日新聞1999年10月7日)などと論評しました。一方、公明党は次のような方針の下で連立参加を決めました。

 ◎国民は自民党単独政権を望んでいないが、比較第一党という一定の安定した地位を与え続けている。

 ◎切迫する課題を解決するには政治の安定が必要だが、民主党が自民党との違いを強調するあまり、合意形成による課題解決が進まないとすれば、公明党の役割が重要。

 ◎公明党が日本の政治全体に責任を持ち、リーダーシップを発揮するために、政権に参画し、連立政権の一翼を担う立場に立つことを鮮明にするという大きな選択肢が考えられる。

 結党から30年にわたって掲げていた「反自民」の旗を降ろした背景には、自民党内の一部で高まっていた宗教法人法の改正をけん制する狙いがあったとも報じられました。

 公明党と創価学会の関係は、憲法の定める「政教分離の原則」に反するのではないかとの意見が何度も噴出した経緯があります。公明党の公式見解によると、双方の関係は「あくまでも支持団体と支持を受ける政党という関係」であり、国家権力を縛る目的である憲法の規制対象にもなりません。しかし、そうした道理があるにしても、「反自民」を放棄した理由の1つには、同法改正による創価学会への介入を防ぐ狙いもあったのではないか、というわけです。