事欠かない女性権力者の「逆ハーレム」

 劉嫖の愛人は一人だけだったが、その後の歴史では、複数の男妾を同時に囲う「逆ハーレム」をもった女性権力者もあらわれた。

 逆ハーレムは歴史用語ではなく、俗語である。サブカルチャーの世界では「逆ハー」とも略す。現代の女性向けのゲームや漫画、アニメでよく見られる設定である。現代中国語では「逆後宮」と言う。これは日本語の「逆ハーレム」の直訳である。

 昔の中国に「逆後宮」という言葉はなかったが、それに近いものは、ときどき存在した。宗族インフラ製造工場という国家の一部として運営された後宮と違い、逆後宮は女性権力者一代限りのプライベートな空間で、隠微で小規模だった。

 公然と逆後宮を構えた最初の例は、南朝の宋(420年─479年)の山陰公主こと劉楚玉(りゅうそぎょく)である。彼女は、名門の家柄である何戢(かしゅう、446年─482年)と結婚した。464年、父の孝武帝(ぶこうてい)が死に、弟の劉子業(りゅうしぎょう、前廃帝。449年─466年)が数え16歳で第5代の皇帝になった。

『宋書』本紀第七・前廃帝の記述によると、山陰公主はあまりにも「淫恣(いんし)」だった。あるとき、皇帝となった弟に抗議した。

「わたくしと陛下は、男女の違いはあれど、同じお父様の子です。陛下の後宮の美女は万の数、わたくしは駙馬(ふば、天子や貴人の婿のこと)がひとりだけ。こんな不公平って、ありますか」

 皇帝は姉のために30人の「面首」を左右の近侍として置いてやった。「面首」は当時の中国語でイケメンの意であり、この故事にちなみ、後世の漢文では男妾を「面首」と表現する。

 また皇帝は、姉の封爵を会稽(かいけい)郡長公主に進め、湯沐邑(とうもくゆう、女子皇族のための税収用の領地)2000戸、彼女の専用の鼓吹楽団、「班剣」の武士20人なども与えた。

 劉楚玉は、30人の美男子でも満足できなかった。当時の朝廷の官員のうち、吏部郎(りほうろう)の褚淵(ちょえん)は美男子で、劉楚玉は皇帝である兄におねだりして、褚淵を自分のおつきにしてもらう。褚淵はまじめな男で、劉楚玉に毎夜関係を迫られても断り続けた。10日後、やっと放免された。

 劉子業は暴君で、皇帝となってからわずか1年半で、クーデターで殺される。まだ17歳だった。死後、皇帝号を剝奪され「廃帝」扱いになった。南朝の宋では第7代皇帝も廃帝となったので、第5代を「前廃帝」、第七代を「後廃帝」と呼ぶ。

 劉楚玉は自尽を強要された。彼女の享年は不明だが、形式上の夫である何戢の生年から推算して、数え20歳にならぬうちに死亡した可能性が高い。彼女は現代の女子高校生くらいの年齢で、逆ハーレムを構えたわけだ。

 はるか後年、何戢の娘の何婧英(かせいえい)は、南朝の斉の廃帝・蕭昭業(しょうしょうぎょう)の皇后になった。何婧英の生母は宋氏という女性だったが、何婧英は父の正妻だった劉楚玉を嫡母として高昌県都郷君(こうしょうけんときょうくん)に追尊し、自身も劉楚玉と同等以上の淫蕩ぶりを発揮したが、それはまた別の物語である。

 この他にも、後宮の宦官や仏僧と不適切な関係にふけった北斉の武成帝(ぶせいてい)の胡皇后(ここうごう、胡太后。6世紀)や、夫の死後、次々と愛人をもった唐の武則天(則天武后)など、女性権力者による公然・非公然の「逆ハーレム」の事例には事欠かない。ただし、全体的に見れば、逆ハーレムはあくまで裏の存在だった。

唐の時代の武則天も、夫の死後、次々と愛人をもったことで有名だ(写真:TopFoto/アフロ)

 男の天子の後宮は、先祖のために子孫を増やすという儒教的な大義名分があった。淫欲の結果生まれた子が、成長して名君となり、親の不名誉をすすぐ可能性もある。それにくらべると、逆ハーレムから次の天子候補が生まれる可能性は、儒教社会の建前から言ってゼロであった。

 女性権力者の本人も、それなりに外聞や体面を気にしていたこともあり、逆ハーレムが表の後宮のような恒久的組織になることはなかったのだ。

後宮 殷から唐・五代十国まで』(加藤徹著、角川新書)

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