兵馬俑坑などの遺跡で有名な始皇帝も、一生涯、後宮問題に振り回された人物の一人だ(写真:PantherMedia/イメージマート)
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小都市並みの規模を持つ巨大な密室、後宮。イスラム文化圏のハレムなどと違い、中国的な後宮は、中国の歴代王朝にしか存在しない。そして王朝の永続のために、その制度は改良され続けた。後宮を舞台としたアニメ『薬屋のひとりごと』が人気を博すなど、さまざまな作品でも描かれてきた。3000年以上も存続した後宮は、中華帝国の本質を映し出す国家システムだ。中国史に詳しい明治大学の加藤徹教授は、新著『後宮 殷から唐・五代十国まで』で、その後宮を軸にした中国史に迫った。

(*)本稿は『後宮 殷から唐・五代十国まで』(加藤徹著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

始皇帝も後宮で悩んだ

 始皇帝は有能で精力的な君主だった。天下の文字や貨幣、度量衡その他の規格を統一した。万里の長城の拡充や、阿房宮(あぼうきゅう)と始皇陵の造成、「世界最古の高速道路」とも呼ばれる「直道」の建設など、史上空前の土木事業を行った。

 だが、民は労役で疲れ、旧敵国民は始皇帝を恨んでいた。始皇帝の死後、天下は群雄割拠の騒乱状態となる。紀元前206年、秦帝国はわずか15年で滅亡した。

 始皇帝は一生を後宮にふりまわされた。

 始皇帝の曾祖父・昭襄王(しょうじょうおう、在位、前306年─前251年)は、死後に「昭襄」という諡号(しごう)を贈られた有能な王だった。「昭」は頭がよく徳がある君主、「襄」は戦功を挙げた君主への諡(おくりな)である。昭襄王は一時期「西帝(せいてい)」を自称した。始皇帝が「帝」号にこだわった一因は、曾祖父への尊敬にあったのかもしれない。

 昭襄王の息子である安国君(あんこくくん、後の孝文王)は、政治家としては凡庸だったが、後宮でせっせと「公子」すなわち跡継ぎ候補の男子を20人くらいも作った。ただ、後妻で正妻である華陽夫人とのあいだには、世継ぎは生まれなかった。

 ちなみに、秦王の後宮の后妃のランキングは、次の8階級であった。

 王后、夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使

 王の正妻は「后」だが、安国君は一介の王子なので、その正妻は「夫人」である。

 戦国時代、各国の君主は友好関係の保証として、自分の子を人質として相手国に送った。子供時代の徳川家康が、駿府の今川義元に人質に取られたのと同様だ。

 孝文王の側室の夏姫(陳の霊公と関係をもった夏姫とは別人)は、すでに寵愛を失っていた。夏姫が産んだ公子「異人」は、跡継ぎになる可能性が最も低い、いわばスペアだったのだ。

 孝文王は、異人を、秦と敵対する趙の国に人質として送った。趙との関係が悪化して戦争になれば、人質は殺されるかもしれない。孝文王はそれを承知で、死んでも惜しくないスペアの息子を、敵対国へ人質として送った。

 後宮の女性が受ける寵愛の度合いは、息子にもこれほど影響するのだ。