領土拡張のため外国君主と肉体関係を結び、そして謀殺

 ここで、昭襄王の実母で、始皇帝が生まれる6年前まで生きていた宣太后(せんたいこう、?─前265年)について触れておこう。彼女は、秦の第26代の君主・恵文王(けいぶんおう)の側室で、先祖は楚の国の人だった。後宮での地位は「八子」で、それほど高くなかった。

 第27代・武王は、力自慢だった。武将と重い鼎を持ち上げる力比べをして、脛骨を折って死んだ。武王には子がなかったので、人質として燕の国に送られていた異母弟が秦に戻り、王位についた。第28代・昭襄王である。彼の実母は宣太后と号し、弟(昭襄王の叔父)とともに政治の実権を握った。

 男尊女卑の気風があった昔の中国では、女性は人前で政務を執るべきではないとされたものの、例外もあった。君主が幼い場合、母親や祖母が後見人として政務を執ることがあった。これを「垂簾(すいれん)聴政」(すだれを垂らしてまつりごとを聴く)と言う。

 高貴な身分の女性は、男性の前に姿をさらすべきではない、と考えられていたため、すだれごしに臣下を相手に政務を執ったのだ。なお「垂簾」は言葉のあやで、実際は臣下からの目隠しに屛風やカーテンを使ったり、あるいはそのような目隠しを略す場合もあった。

 垂簾聴政を行った皇后は、前漢の呂后(りょこう)も、唐の武則天も、清の西太后も「悪女」という風評をつけられがちである。垂簾聴政の先例を作った宣太后についても、『史記』匈奴列伝は奇怪な醜聞を載せる。

 秦の昭王(しょうおう、昭襄王)のとき、宣太后は、義渠(ぎきょ、オルドス地方にあった国)の戎王(じゅうおう、異民族の王)と乱倫な関係になり、二子を産んだ。彼女は義渠の戎王をだまして甘泉宮で殺し、軍隊を送って義渠を攻め滅ぼした。こうして秦は隴西(ろうせい)、北地、上郡の広大な領土を併合し、長城を築いて胡族(こぞく)を防いだ──。

 いくら国の領土拡張のためとはいえ、外国の君主と肉体関係をもち、子までなして相手を油断させたうえで謀殺するとは。信じがたい悪女ぶりだが、司馬遷は史実として記している。この話は中国では有名で、近年のテレビドラマでも描かれている。