始皇帝の生母である趙姫も、夫の死後、にせの宦官と内縁関係となり、子までもうけた(写真:アフロ)
小都市並みの規模を持つ巨大な密室、後宮。イスラム文化圏のハレムなどと違い、中国的な後宮は、中国の歴代王朝にしか存在しない。そして王朝の永続のために、その制度は改良され続けた。後宮を舞台としたアニメ『薬屋のひとりごと』が人気を博すなど、さまざまな作品でも描かれてきた。3000年以上も存続した後宮は、中華帝国の本質を映し出す国家システムだ。中国史に詳しい明治大学の加藤徹教授は、新著『後宮 殷から唐・五代十国まで』で、その後宮を軸にした中国史に迫った。
(*)本稿は『後宮 殷から唐・五代十国まで』(加藤徹著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
情夫の始まり
前漢の武帝の時代は、後宮も含め、古典的な中国のイメージがさまざまな分野で確立した画期的な時代だった。
女性権力者が公然と情夫すなわち男妾(おとこめかけ。だんしょう)をもったのも、武帝の時代が最初である。
男尊女卑の気風が強かった昔の中国では、男性の権力者は、子孫を増やして宗族の永続と繁栄をはかるという口実に便乗して、側室や愛人を囲った。
数は少ないが、女性の権力者で男性の愛人や情夫をもつ者もいた。
始皇帝の生母である趙姫(ちょうき)は、夫の死後、にせの宦官である嫪毐(ろうあい)と内縁関係となり、子までもうけた。これは非公然の男妾であり、発覚後は嫪毐も子供も殺されている。
前漢の呂太后はすさまじい権力者だったが、夫の死後、情夫を囲った形跡はない。
中国史上、女性権力者が公然と愛人をもった最初の例は、武帝の父親の同母姉、すなわち武帝の伯母である館陶長公主こと劉嫖(りゅうひょう)である。「嫖」という漢字には、軽い、すばやい、という良い意味の他に、淫ら、買春するなど、悪い意味もある。
劉嫖はその名のとおり、頭が良く、かつ淫らな女性だった。武帝は劉嫖のおかげで皇太子になれたという経緯もあり、生涯、劉嫖には頭があがらなかった。
武帝は劉嫖を「竇太主」と呼んで尊んだ。武帝の父・景帝と劉嫖の生母である竇太后の姓から、そう呼んだのである。後世の記述において、劉嫖は、館陶長公主、竇太主、竇長公主などさまざまな名前で呼ばれる。
劉嫖の夫は、文帝の女婿で堂邑(どうゆう)侯に封ぜられた陳午である。陳午の生年は不明だが、前129年に亡くなる。
劉嫖は夫と死別したとき、すでに60代だった(『漢書』東方朔伝では「年五十余」すなわち50歳代とするが、劉嫖は、前188年生まれの景帝の姉なので、60歳代が正しい)。彼女は、孫ほども年が離れた董偃(とうえん)という美少年を、公然と愛人とした。

