「私が母親になって育ててあげる」と愛人飼育

 もともと董偃は13歳のときから、宝石売りの母親とともに劉嫖の屋敷に出入りしていた。劉嫖は、左右の者が「美少年ですよ」と言うので会ってみると、そのとおりだった。彼女は「私が母親になって育ててあげる」と言い、董偃を引き取る。愛人飼育である。

 劉嫖は董偃に、実技の学習や読書などの教育を受けさせ、董偃が18歳になると冠礼(成人になる儀式)を行った。董偃は、劉嫖が外出するときは御者をつとめ、屋敷にもどると奥勤めをした。

 董偃はおだやかでやさしい人物だった。劉嫖がバックにいることもあり、都の貴顕は尊んで「董君」と呼んだ。武帝は婉曲に「主人翁」(ご主人さま)と呼び、このため後世の中国では、「主人翁」は情夫の異称の一つになった。

 劉嫖は、庶民出身の董偃がセレブと社交するため、金銭を湯水のように使わせた。彼女は屋敷の会計を担当する役人に言った。「董君が使うお金が、一日あたり黄金百斤、銭百万、絹千匹までなら、私に報告する必要はない」。黄金百斤は今の日本円で約4億円にあたる。

 その後、董偃は30歳で亡くなった。数年後、劉嫖も死去。彼女は遺言で、董偃を自分といっしょに覇陵(漢の帝陵の一つ)の地に合葬させた。

 当時の礼制や道徳から見て、劉嫖の行為は褒められたものではなかった。武帝に仕えた東方朔は、武帝の前で、劉嫖と董偃の関係の破廉恥ぶりを糾弾している。それでも、趙姫と嫪毐のケースと違い、劉嫖と董偃は破滅することなく終わりを全うした。

 さすがの劉嫖も、夫の生前は愛人を公然化しなかった。また、生理的な年齢も理由だったろうが、董偃とのあいだに子供をもうけることもなく、死後も合葬を願うなど最後まで純愛を貫いた。女性権力者が公然と愛人をもつ先例を開いた点で、劉嫖は中国史上、無視できぬ人物である。