話を、昭襄王の孫で始皇帝の父親である異人に戻す。

 反秦感情が強い趙の都に人質として送られた異人は、趙から冷遇され、不自由な生活を送った。それに目をつけたのが、商人として各国を渡り歩いてきた呂不韋(りょふい、?─前235年)である。

「奇貨居くべし」(めずらしい品物だ。手元に置いておこう)

 彼はそう言い、異人のパトロンとなり、彼が将来、秦の王になれるよう大金を使って裏工作を行った。彼は、華陽夫人の姉を通じて吹き込んだ。

「美貌をもって人につかえる人は、美貌が衰えると愛もかげってしまう、と申します。いまはご寵愛をお受けでも、お子様がいないと、やはり将来がご心配でしょう。そこでご提案があります。趙に人質に出されている異人さまは、賢いかたです。異人さまを養子になさってはいかがでしょう。遠い将来、異人さまが秦の王位を継げば、あなたさまも王の嫡母となり、ずっとご安泰です」

 華陽夫人はこの話に飛びついた。安国君は華陽夫人に夢中だったので、彼女の言うとおりにした。華陽夫人は楚の国の出身だったので、異人は「子楚(しそ)」と改名し、養子となり、あわせて安国君の世継ぎに指名される。

 前251年、昭襄王が、在位55年で死去した。昭襄王の太子の安国君が孝文王となったが、わずか1年で死去。前250年、子楚が王位を継いだ(荘襄王=そうじょうおう)。

 荘襄王の嫡母である華陽夫人は華陽太后に、生母である夏姫は夏太后となり、安定した幸福な晩年を送ることができた。外国の商人から出世した呂不韋は、秦の「相国」(後世「丞相」と呼ばれる、首相にあたる大臣)となり、絶大な権力を得る。

 荘襄王は、前247年に35歳の若さで死去。人質時代の趙の国で生まれた、わずか13歳の息子が王位を継承した。これが後の始皇帝である。

後宮の権力争いの結果、王位を継承した始皇帝。状況次第では王位を継承することもなかったかもしれない(写真:アフロ)

 歴史に「もし」は愚かしいが、もし往年の華陽夫人に男子が生まれていたら、始皇帝が歴史の表舞台に出る幕はなかったのだ。後宮での寵愛とか妊娠の有無は、歴史にも大きく影響しているのである。

後宮 殷から唐・五代十国まで』(加藤徹著、角川新書)

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