事故現場は、水川さんの自宅から歩いて10分ほどの距離。沙也香さんは日課にしていた散歩の途中、突然、事故に遭遇したのでした。

沙也香さんが携帯していたマタニティマークのついたバッグは、衝突の衝撃でショルダーベルトが引きちぎられていた(遺族提供)

「娘は妊婦でした。最も配慮を要する存在が、最も無防備な状況で命を奪われたのです。裂けた服、血に染まった靴、切れた靴紐、歪んだマタニティマーク……、それらの遺品に触れるたび、娘が受けた苦痛と、この事故の残酷さが容赦なく突きつけられます。

 それでも、孫の日七未(ひなみ)に低酸素症以外の影響がなかったのは、沙也香がとっさに守ったからだと思うのです。ほとんどの場合、倒れるときは手をつくなりして、防御するのではないでしょうか。しかし娘は、自分のことより、両手でお腹の子を支えるように頭から倒れ込んだのではないかと推測されるのです」

事故当時、沙也香さんが着ていた衣服。衝撃の強さを物語っている(遺族提供)

緊急の開頭手術と帝王切開

 衝突の衝撃で頭部に大きなダメージを受けた沙也香さんは、事故直後からすでに瞳孔が開き、意識がない状態でした。救急搬送された病院では、脳外科と産婦人科、そして小児科の連携によって、頭蓋骨の開放手術と帝王切開、子宮摘出手術が同時に行われました。

 しかし術後、医師から告げられたのは、「脳の機能はすでに停止しており、心臓だけが動いている」という厳しいものでした。

 水川さんは振り返ります。

「ICU(集中治療室)で対面した娘・沙也香は、変わり果てた姿でした。私たちは手を握り、何度も名前を呼び続けました」

 一方、事故から約1時間半後、帝王切開によって生まれた女の子の赤ちゃんは、事故後、母体の中で酸素が届かなかったため、脳に大きなダメージを受けていました。

「誕生を心待ちにしていた私たちの孫・日七未は、NICU(新生児集中治療室)の保育器の中で管に繋がれていました。医師からは『低酸素性虚血性脳症』と診断され、目を開くこともなく、泣き声もありません。自発呼吸はできず、意識はなく、母の顔を見ることも、抱かれることもできず、この先、一生寝たきりの状態が続くと言われたのです。こんな惨いことがあるでしょうか……」

日七未ちゃんは人工呼吸器を装着し、今もベッドで眠ったままだ(家族提供)

 事故から2日後の早朝、沙也香さんは家族に見守られながら、そして、我が子を一度も抱くことができないまま、31歳という若さで静かに息を引き取りました。