ミッドウェイ海戦では、日本が自ら有利な要素を放棄して敗れたという(写真:akg-images/アフロ)
ミッドウェイ海戦、インパール作戦、沖縄戦──。太平洋戦争の日本の作戦というと、失敗し大敗を喫した作戦ばかりが注目されがちだ。しかし、開戦初期には、日本軍は極めて精緻な作戦を複数成功させていた。南方進攻作戦である。
南方進攻作戦はいかにして成功に至ったのか。そして、その後のミッドウェイ海戦では、なぜ有利な要素を自ら放棄して敗北を招いたのか。太平洋戦争の明暗を分けた要因について『太平洋戦争』(PHP研究所)を上梓した大木毅氏(現代史家)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)
──太平洋戦争における日本軍の作戦は、失敗例が語られることが多いですが、本書では成功例にも触れています。
大木毅氏(以下、大木):開戦初期の南方進攻作戦は、日本が戦争を継続するためには必要不可欠でした。南方の資源地帯を確保し、防衛圏を築かなければ、戦争そのものが成立しません。
1941年12月8日の開戦から半年間、日本軍はマレー、シンガポール、米領フィリピン、蘭印(現在のインドネシア)を主要目標として進撃しました。
この作戦は、限られた戦力を最大限活かすため、時間と空間の両面で緻密に計画されました。「何月何日までにここを攻略し、その兵力を次に転用する」という綿密なスケジュールのもと、一歩の遅れも許されない状況で進められたのです。
わずかな狂いが全体を崩壊させかねない危険な作戦でしたが、日本軍はこれを見事に遂行しました。
──南方進攻作戦の中で、特に優れていたのはどの作戦でしょうか。
大木:蘭印作戦だと思います。
蘭印の広さは、西ヨーロッパほど。そのような広大な地域を限られた兵力で制圧するには、地上作戦の前に、まず海と空で優勢を確保する必要がありました。
その前提が満たされたことで、主要拠点を的確に押さえ、副次的地域での抵抗を封じる「点で面を制する」作戦を成功させたのです。これは戦略的にも非常に優れた事例だと思います。
──一方、フィリピン作戦については「歯車に一粒の砂が入った」との表現がありました。
大木:南方進攻作戦は全体が連動しており、遅延は致命的です。
フィリピン制圧の要件をめぐり、大本営は判断を誤りました。フィリピンの首都であるマニラを占領すればフィリピンを制圧したと言えるのか、それとも、フィリピンで抵抗している米軍と米軍の指揮下にあるフィリピン軍(以下、米比軍)を撃破すれば制圧できるのか。
後世の目線からすれば、後者の「米比軍撃破」が「制圧」を意味していることは明らかです。けれども、大本営は「マニラを占領=フィリピン攻略」と考え、マニラ占領で作戦完了と見なし、残存する米比軍を放置したのです。
主力部隊は他戦域へ転用され、残された部隊ではバターン半島の米比軍陣地を突破できず、大損害を被りました。当初45日で完了するはずだった作戦は、実際には約150日を要しました。
最終的には増援と大砲の集中投入で米比軍を降伏させましたが、その前の1942年3月、司令官マッカーサーはオーストラリアに脱出し、反攻の指揮を執ります。
──南方進攻作戦が順調に終わった段階で、日本側から停戦協定を切り出すという選択肢はなかったのでしょうか。
