2024年の終戦記念日。靖国神社の本殿で列を作る人々(写真:AP/アフロ)
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 日本において終戦の日は8月15日である。しかし、連合国が日本にポツダム宣言を突き付けたのは1945年7月26日だ。

 なぜ日本は、ポツダム宣言の即時受諾を拒んだのか。広島、長崎への原爆投下とポツダム宣言の受諾時期に関係はあるのか。『誰が日本を降伏させたか 原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』(PHP研究所)を上梓した千々和泰明氏(防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)

──広島、長崎に原爆を投下した米国の目的について改めて教えてください。

千々和泰明氏(以下、千々和):この問題を巡っては大きく2つの立場があります。

 1つは「核外交説」と呼ばれるもので、必須ではなかったにもかかわらず、米国が戦後の対ソ連関係を見据えた威嚇のために核を使用したというものです。もう1つは「コスト最小化説」と呼ばれ、犠牲を最小限に抑えつつ早期に戦争を終わらせるため核兵器を使用したという考え方です。

 これらはいずれも「目的」に関する言説に過ぎません。私は、核兵器の使用が日本のポツダム宣言受諾の時期を早めたのかという「効果」を分析することが重要だと考えています。

 核使用の目的が核外交であっても、結果的に早期終戦につながったのかもしれませんし、逆にコスト最小化を狙ったものの降伏決定には影響を与えなかった可能性もあるのです。

──書籍では、米国が日本の無条件降伏に固執した理由も指摘されていました。

千々和:第二次世界大戦は、暴走するナチス・ドイツが1939年9月にポーランドを侵攻したことが発端です。その後も欧州諸国を次々に攻略していきました。ナチス・ドイツはソ連とも壮絶な戦争を繰り広げます。

 連合国はその危険性を察知し、1943年1月のカサブランカ会議(※)で枢軸国に「無条件降伏」を要求する方針を決定しました。

※カサブランカ会議:米英首脳が北アフリカのカサブランカで会談し、枢軸国に無条件降伏を求める方針を打ち出した会議。

 この方針の狙いは、部分的な講和や妥協的な和平を避け、徹底抗戦を明確にすることでした。これは、もちろんドイツを念頭においた政策でした。けれども、米国は1941年12月に真珠湾攻撃を仕掛けた日本の軍国主義も同様に危険視していました。もし講和による妥協を許せば、日本が戦後に力を取り戻し、再び侵略的な行動に出る可能性があると懸念したのです。

 その危険を徹底的に排除するために、米国は日本に対してもドイツと同様に無条件降伏を求める立場を貫いたのだと考えられます。

──米国が日本を無条件降伏させるために持っていたカードとして、「日本本土侵攻」「ソ連の対日参戦」「核使用」の3つを挙げていました。それぞれのメリット、デメリットについて教えてください。