8月6日の平和記念式典の開催を知らせる広島市の広島平和記念資料館の掲示(筆者撮影)

原爆で家族を失い、朝鮮半島に渡った少年

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 8月6日の広島はつらい。だから、大阪府の友田典弘さん(89)は広島行きの予定を直前になって取りやめた。

 9歳だった80年前の朝、いつも通り2歳年下の弟の幸生さんと学校に向かったが、校門前で上級生に絡まれ遅刻した。西校舎地下の下駄箱前で片方の靴を脱いだとき、唐突に閃光に包まれた。

 校庭に出ると、無数の黒焦げの遺体があった。ひと足先に着いた幸生さんの姿を探すと、黒焦げの子どもたちの中に、母の字で「トモダ」と記した靴を履いた一人を見つけた。自宅跡には何もなく、朝、いつものように送り出してくれた母タツヨさんは80年経った今も見つからない。父は当時すでに病死しており、たった一人になった。

80年前、原爆で灰燼と帰した広島=1945 年 11 月撮影(写真:Science Photo Library/共同通信イメージズ)

 数日後、自宅に間借りしていた金山さん(金さん)に焼け野原で遭遇した。戦争が終わり、朝鮮半島に戻るという彼にしがみついて「連れていって」とせがんだ。「金炯進(キムヒョンジン)」の名をもらい、日本語を封印。だが、「日本人なんか連れてきて」と家族に煙たがられて家を出た。

 路上生活を続けていると、今度は朝鮮戦争が始まった。銃弾が飛び交うのを目の当たりにした。パン屋で働いたが、望郷の念は募る。ヤンさんという女性に日本語を助けてもらい、広島市役所などに事情を記した手紙を書き続けた。ようやく日本に戻ったのは24歳のとき。15年もの月日が経っていた――。