1976年12月12日、第28回朝日杯3歳ステークスで1着だったマルゼンスキー 写真/産経新聞社
(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)
マルゼンスキーの強さを示すエピソード
10月5日、フランスのパリロンシャン競馬場で開催される凱旋門賞(G1、芝、2400メートル)に今年のダービー馬、クロワデュノールが挑戦します。日本馬として初の栄冠へと導くのか、この秋、日本競馬界最大の話題となるでしょう。
凱旋門賞にはここ15年で25頭(ナカヤマフェスタ、オルフェーブルは2回出走)の日本馬が出走していますが、レースを振り返ると日本馬が5着以内に入着したのはわずか4回しかありません(ナカヤマフェスタの2着、オルフェーブルの2着2回、キズナの4着)。
さて、今から半世紀近く前の1978年、日本では凱旋門賞に出走すること自体が名誉だった時代、このレースに挑むだけでなく勝利をめざした馬がいました。その馬の名は、マルゼンスキーといいます。
名馬にはエピソードが付きものですが、マルゼンスキーの蹄跡をたどっていくと、その強さを浮き彫りにするエピソードがたくさんあります。いくつか紹介しましょう。
エピソード1:スーパーカーと呼ばれた理由
1970年代の半ば、『週刊少年ジャンプ』で連載中だった人気漫画『サーキットの狼』の影響もあり、子供たちの間にスーパーカー・ブームが巻き起こります。フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェなどの外国車種に人気が集まりました。ちょうどその頃、持込馬(母馬が国外で種牡馬と交配され日本で生まれた馬)として米国からやってきたマルゼンスキーを、その圧倒的なスピードからスーパーカーになぞらえたものでした。
その後、スーパーカー・ブームは何度かありましたが、マルゼンスキー以後、高速の乗り物になぞられた競走馬は出てきていません。スタート直後のダッシュ力、加速度、耐久性、燃費等において、当時の国内生産馬とはかけ離れた性能を誇っていたマルゼンスキーこそ、唯一無二のスペシャルカーだったのです。