(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)
昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。
シンエンペラーの凱旋門賞と日本馬挑戦の歩み
2024年10月6日、フランスはパリ近郊ブローニュの森にあるロンシャン競馬場で、今年も世界最高峰のレースのひとつとして知られる「凱旋門賞」が開催されました。
日本からはシンエンペラー(坂井瑠星騎乗、矢作(やはぎ)芳人厩舎所属)1頭が参戦、2400メートル芝コースで行なわれましたが、残念ながら16頭立ての12着に終わっています。
シンエンペラーは牡3歳、今春、日本のクラシックレース「皐月賞」では5着、「東京優駿(ダービー)」では3着といった成績で、凱旋門に赴く日本馬の成績としては若干物足りないものでした。それでもなお同馬を管理する矢作調教師には「一縷の夢」というか、「もしかしたら」との思いがあったのでしょう。
それは、シンエンペラーの全兄(父馬と母馬が同一)であるソットサス(フランスの名馬。「そっと差す」ではありません)が4年前の2020年の凱旋門賞で優勝していることが大きく影響しています。
シンエンペラーは今から2年前の2022年、フランスで行なわれた1歳馬のセールで、約3億円で落札。実質的な落札者は後に同馬のオーナーとなった、サイバーエージェントの代表として知られる藤田晋氏でした。
同馬は日本でのデビューから2連勝を飾り大いに期待されましたが、その後の戦績が今ひとつ、それでも海外遠征志向の強い矢作調教師はあえて挑戦、凱旋門賞大敗後のインタビューでは馬場の違いなど一切の言い訳をせず、潔く負けを認めていました。
凱旋門賞と日本馬挑戦の歩みを振り返ってみると、1969年のスピードシンボリがその嚆矢(こうし)となります。残念ながら結果は着外。当時は10着までの記録しか残っていないのでスピードシンボリの正式な着順は不明ですが、24頭立てで11着以下の大敗でした。
帰国後に挑んだ有馬記念を同馬が制したことで日本の競馬ファンは彼我の差をまざまざと痛感したことでしょう。なお、私の競馬記憶はこのころから始まっています。