タウンゼント・ハリス
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(町田 明広:歴史学者)

岩瀬忠震の香港渡航問題

 安政4年(1857)6月21日、岩瀬忠震は目付鵜殿長鋭・一色直温・津田正路・永井尚志宛書簡の中で、外交担当者として外国交際と貿易の実態を視察し、その知見を得ることによって、外交交渉に臨まなければ責任が果たせないとして、香港への渡航を希望した。ここに、岩瀬の香港渡航問題が発生したのだ。

 それを受けた目付たちは賛同して、老中に岩瀬の香港渡航を上申した。その結果として、8月18日に至り、老中は貿易事項取調のため岩瀬を香港に派遣すべきかどうか、評定所一座(寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行)・海防掛等に諮問して審議させた。

 その結果、評定所一座・海防掛(勘定奉行・勘定吟味役グループ)は反対、海防掛(大目付・目付グループ)は賛成を表明した。また、林復斎・筒井正憲は条件付きで賛成した。老中は結論を出せず、最終判断を13代将軍徳川家定に求め、「見合わせ」に決定したのだ。将軍が直々に審判を下さなければならないほど、岩瀬の存在感の高さがうかがえよう。