蔦重との関係が冷え込んだ理由は?
歌麿と蔦重と関係は、寛政5年(1793)、または6年(1794)から、冷え込んでいったとされる。
その理由は、一説によれば、売れっ子になった歌麿は、他の版元からの勧誘がさらに増えたため、蔦重から遠ざかっていったという。蔦重が、東洲斎写楽の役者絵を優先するようになったのは、そのためだとも考えられている。
もしくは歌麿が、写楽に強く入れ込む蔦重に反感を抱き、蔦屋から離れたともいわれる(以上、松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』)。
歌麿の処罰と死
蔦重は寛政9年(1797)、48歳で病没した。
歌麿はその後も創作を続けるも、文化元年(1801)5月、50日の手鎖の刑に処せられている。手鎖の刑では、両手首に鉄の枷を付けられ、自宅等で軟禁状態となる。
刑に処せられた理由は、豊臣秀吉の事跡を読本化した『絵本太閤記』を題材として、錦絵『太閤五妻洛東遊観之図』(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)を、描いたからである。
当時、錦絵で、織田信長、豊臣秀吉以降の実在の武士を描くことは禁じられていたのだ(田辺昌子『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい 喜多川歌麿 生涯と作品』)。
この刑を受けてから、歌麿は衰弱し、2年後の文化3年(1804)、息を引き取った。
衰弱した歌麿に会った版元たちは、歌麿の死期が近いことを悟り、「生きているうちに絵を依頼しよう」と踵を接したと伝わる(関根金次郎『浮世画人伝』)。
この逸話が真実だとしたら、死の間際まで依頼が途切れないことを、歌麿は喜んだのではないだろうか。絵師として、きっと悪くない最期だったと信じたい。