大首絵で浮世絵界のスターに
天明6年(1786)8月25日、眞島秀和が演じる十代将軍・徳川家治が急死した。後ろ盾を失った、渡辺謙が演じる田沼意次は2日後の27日、老中辞職に追い込まれている。
天明7年(1787)4月、徳川家斉が15歳で十一代将軍に就任し、同年6月、白河藩主となっていた寺田心が演じる松平定信が、30歳で老中首座を拝命。松平定信は、寛政の改革を主導していく。
改革に伴い、出版物の取り締まりが厳しくなった。
寛政3年(1791)、蔦重は古川雄大が演じる北尾政演(山東京伝)の洒落本が、禁令を犯しているとし、財産の半分を没収されるという処分を受けている。
そんな情勢のなか、歌麿は美人画に進出した。
当時、美人画で人気を博していた浮世絵師は、地本問屋・西村屋が擁する鳥居清長だった。
全身像で、無表情に描かれていた清長の美人像に、歌麿と蔦重は上半身のみを描く「大首絵」の形式で、表情を強調した「美人大首絵」という新しいジャンルで対抗した。
寛政4~5年(1792~1793)にかけて、『婦人相学十躰』、『婦女人相十品』、『歌撰戀之部』などの美人大首絵が刊行され、大好評を博している。特に、『婦女人相十品』の「ホッピンの娘」は有名である。
さらに、のちに「寛政三美人」と称される、実在する江戸で評判の美人を名入りで描き、大衆から圧倒的支持を受け、歌麿は一躍、浮世絵界のスターの座に上り詰めた。
蔦重も浮世絵の売り上げで、経済的に潤っている。